藤田嗣治

昨日読了。明治19年生まれの藤田は、27歳の大正2年にパリに留学する。青年期のパリの回想が瑞々しい。

パリはまったく私の想像とまったく反して、今日もまだ石油ランプを使い、多くの家はエレベーターなくして、七階八階に昇降の労を朝夕何度と繰り返さずばならず夜に入っても石の階段に点橙の設備もなく懐中電燈、蝋燭の火、あるいはマッチの明りで用を達するような旧式な家多く心に描いた夢のパリと実際の冷い石造の古びたパリとの差は私を驚かし、且つまた私をして喜ばせ遂に私を捕虜としてしまった。
春にはリラ、マロニエの花が香り、冬は敷石の歩道に氷る月光を馬車輪の音はなおも冴えさした。(14)

着巴早々ピカソの家に於てピカソからルソーの画を見せつけられて、セザンヌとかゴッホというような名前すらも知らずしていきなり極端な方に私は眼を開いたのであった。私が今まで美術学校で習っていた絵などというものは実にある一、二人の限られた画風だけのものであって、絵画というものはかくも自由なものだ、絵画の範囲というものはいかにも広いもので自分の考慮を遺憾なく自由にどんな歩道を開拓してもよいと言うようなことを直ちに了解した。(20)

「河童頭新体制」というエッセイが面白く、印象深かったが、楽しい自己演出的文体の裏側に、「自己肯定」ならぬ「自己愛」の屈曲を感じる。1965年のエッセイから。

世間の人は知らな過ぎる。知るわけもなく、外国に永く居るから、おくそく世間の噂で想像した話が誇張されて、今まで筆禍をこうむる事のみ、私の気持ちとして弁解反駁する事もないから、勝手各自我流の論法で私の事を云々してる。私の血の中に流れてる伝統のことも考えなくてはならぬ。
私というものはデリケートな気性から争謗を嫌い、人中に入りてその程度のレベルの人になりたくない。野人やフォーブのような乱暴なところは避けて聞き流し、忘却し、自分の低下を警戒してるだけの事で、時間も惜しいし、いくらかかわっても甲斐のない愚の骨頂と思ってる。
……(中略)……
何もならぬ努力をして疲れたくない。
スノブ連中の皮層の叡智の受け売りには歯が浮く。……(253−254)

そういえば藤田が好きな女の子に感化されたことがあったよなあ(←私の回想)*1http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20060518

腕一本・巴里の横顔 (講談社文芸文庫)

腕一本・巴里の横顔 (講談社文芸文庫)

*1:いや、むしろ国吉康雄という画家の絵を見に行ったときに、藤田の絵もあったのだった。あと、ここを引用しないのはまずいので、引いておきます。「ある日ふと考えた。裸体画は日本に極めて少なく、春信・歌麿などの画に現わる、僅かに脚部の一部とか膝の辺りの小部分をのぞかせて、飽までも膚の実感を画いているのだという点に思い当り、始めて肌というもっとも美しきマチエールを表現してみんと決意して、裸体に再び八年後画筆を下したのであった。……皮膚という質の軟かさ、滑かさ、しかしてカンバスその物がすでに皮膚の味を与える様な質のカンバスを考案する事に着手した。第一がマチエール(質)の問題であったが、私が輪囲を面相筆を以て日本の墨汁で油画の上に細線を以て画いてみた、皮膚の実現肌その物の質をかいたのは全く私を以て最初として、私の裸体画が他の人の裸体画と全く別扱された事は世間の大注目を引いた。(191)」