シガテラ

読了。傑作。
思春期の頃の存在論的不安。そこを通り過ぎてしまえば何でもない、というのは間違いで、おそらく大人になることを境に、主観が世界を構成する仕方はまったくの変容を遂げてしまうのだろう。というか、そうした変容を「経験」することこそ、「成熟」ということなのだろう(厳密には「変容の経験」は不可能だ。根本的変容をまたいで一貫した自己同一性を確保することは出来ない。したがって「経験」は原理的に不可能性を刻印されている。本作が傑作なのはこの不可能性を表現しえているからだ。)
だからこの物語を「主人公が世界を受容し、肯定するストーリー」として読むのは違う。断じて「社会化」の「物語」ではない。むしろ「社会化」とは何か、それがいかなる意味で特権的で一回的な事態であるのかをラディカルに問い詰めた作品であると読むべきだ。そのことを通して、社会化以前の意味秩序をふたたび思い返してみるべき作品であるといえる(もはや共約不可能な世界に対しての、第一次的接近として)。
こう感じるのは、「世界の肯定・受容」としての「社会化」が「喪失の体験」そのものであることに作者がきわめてセンシティブだからである。思春期のリアリティーを描くことへの執拗なまでのこだわりは、この点からその原動力を得ているのだろう。世界は受容された、存在論的不安は去った、しかしそれでよいのか?それは経験以前/以後という時間枠組みには収まらない、質的断絶を帯びた事態ではないのか?――これが著者の根底的な問いだと思われる。
世界を受容する自己肯定物語を拒否し、大人と子供の世界の断絶・落差をあくまで表現したこと――本作品はこのことによって、大人の意味秩序の自明性を揺るがすとともに、青年期を想起する行為の本質的意味を教えてくれるように思われる(もちろん記憶が強烈に呼び戻される)。
傑作です。

シガテラ(6)<完> (ヤンマガKCスペシャル)

シガテラ(6)<完> (ヤンマガKCスペシャル)