memo

人間諸科学の認識論的布置を相対化する手法がそれ自体、ある種の認識論的布置を前提としていたのではマズイ。で、考古学だ。言説の背後の「物」を想定することをやめにし、言説そのものを扱う。

……言説をその堅固さのうちに保持し、それに固有な複雑さのうちに言説を立ち現わさせることである。一言でいえば、断固として、「物」なしで済ませようと欲することである。物を「非現前化」すること。物の豊かな、重苦しい、直接的な充満を払いのけること。……言説に先立つ「物」の謎を含んだ宝に代えるに、言説のうちでのみ粗描される諸対象の規則的な形成=編成をもってすること。これらの<対象>を、<物の基礎>との照合なしに、しかし、それらを、言説の対象として形成=編成することを可能にし、かくしてそれらの歴史的出現の条件を構成する諸規則の総体に帰着させることによって明確化すること。言説の対象の歴史をつくること。この歴史は諸対象を始源的な土壌の共通の深層中にうち沈めず、それらの分散を支配する諸規則の連関を展開するはずである。(74−75)

しかし、分析者自身がその内部に埋め込まれている言説を、いったいどのように解釈することができるのか。できるのか?

一つの社会、一つの文化、あるいは一つの文明の集蔵体を徹底的に記述しつくしえないことは明らかである。おそらく、一時代全体の集蔵体についてさえ、不可能である。他方、われわれ自身の集蔵体を記述することもわれわれにはできない。なぜなら、われわれが語っているのは、その諸規則の内部においてであるからであり、われわれがその出現の様態、その生存および共存形態、その塁合、歴史性、消滅のシステムを言いうることを可能にするのは、それである――それ自身、われわれの言説の対象である――からである。その全体性において、集蔵体は記述されえない。(200)

やっぱりできないのか?

決して成就され、統合的に得られぬが、集蔵体の解明は、言説形成=編成の記述、実定性の分析、言表領野の見定め、などが属する一般的地平を形づくる。さまざまな語の権利、――それは文献学者のそれとは一致しない――は、それゆえ、これらすべての探究に<考古学>の名を考えることを許す。この用語は、いかなる始源の探索へも促さない。……それは、すでに言われたことをその存在のレヴェルで問う記述の一般的な主題を示す。すなわち、それにおいて行使される言表の機能について、それの属する言説形成=編成について、それが由来する集蔵体の一般的システムについて、である。考古学は、さまざまな言説を、集蔵体の要素中での特殊性の規定された実践として、記述する。(202)

ある程度は、できるみたいだ。ではどうやって?

言説形成=編成の分析は、こうした稀薄性に向かう。すなわち、稀薄性を顕在的な対象とし、その独自のシステムを確定するように試みる。……解釈とは、言表の乏しさに対してなされる反作用の仕方であり、意味の増大によってその乏しさを代償する仕方である。乏しさから出発した、乏しさにもかかわらず、語る仕方である。だが、一つの言説形成=編成を分析すること、それは、この乏しさの法則を探ることであり、乏しさの程度をはかることであり、乏しさの特殊な形態を確定することである。それゆえ、それは、或る意味では、諸言表の「価値」を測ることである。(184−185)

問題はこの「法則」探究に成功しているかだが、それはまた別の機会に。