「セキカワ」
関川夏央『石ころだって役に立つ』(集英社文庫)。「須賀敦子の風景―『遠い朝の本たち』」と「石ころだって役に立つ―『道』」の各章を読む。
前者は須賀敦子ファンは必ず読むべきだろう。私は『遠い朝の本たち』は読んだけど、読点の多さが気になったりして、あまりピンとこなかった。でも、これを読んだら、その人となりがはっきりと焦点を結んだように思った。1968年に川端康成とイタリアで会食した際のエピソードにも興味をそそられたが、とりあえず次の文章だけ引いておこう。
…もうひとつは、彼女が、石原裕次郎のいた時代、彼がスクリーン上の多少翳りのある、しかし警戒な不良青年から、テレビ画面上の太った不動の警官になるまでの時間、つまり日本が限りなく大衆化し消費化した時代のすべてを、日本に不在だったということである。
彼女はその間、ローマの寄宿舎ですごし、ミラノでは豊かではないが当代イタリアの一流の知識人たち、それから教養においてはややうらみがあるがはえぬきの上流の人々とまじわってすごしていたのだった。彼女の文章が鍛えられた美しい日本語であり、その描くところは、こと日本に限れば戦前という時代と父の物語に回帰して、この野放図に大衆化した現代日本を直接には決して反映せず、また文学と言語表現の力を根底から信じていたことも、その人生の軌跡のしからしめたところであった、といまは思えるのである。(140)
関川が須賀敦子を見る際のひとつの視点、ということである。
フェリーニの映画『道』のエッセイの方は、青春時代の甘酸っぱいエピソードがなかなか読ませる。
私は一九七四年の自分を苦く思い出すことがよくある。反省もする。しかし反省したからといって人間がどうなるものでもないこともよく理解する。
ジェルソミーナを捨てたザンパノは夜の砂浜で声をあげて泣いた。だがそれでザンパノの人柄がかわったかというと、そんなことはなさそうだ。翌日からはまた、ひとつ覚えの鎖切りの芸を抱えて街道を走りつづけるばかりだ。ただ、ときどきジェルソミーナがトランペットで吹いていたあのメロディーが彼のがさつな心に聞こえてくるだろうが、それはそれだけのことで、反省とは関係がない。(258)
自身の愚かさを、青春時代という特権的な一時期の記憶として封じ込めないことが、彼にとっての誠実さの証なのだ、ということだろうか。ちょっとむずかしいけど。
- 作者: 関川夏央
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2005/05/20
- メディア: 文庫
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