安倍晋三を正しくバカにするための論理

安倍晋三のスローガンは「美しい国、ニッポン」である。このスローガンの抽象性を嗤うのはたやすいが、この抽象性のなかに、笑ってばかりもいられない本質的問題が潜在していることには注意が必要だ。
みなさんお気づきのとおり、「抽象的なスローガン」が意味する安倍の政策構想とは、憲法改正教育基本法改正である。
思うに、安倍の馬鹿さ・低能さの本質は、この点において見られる。イデオロギー対立の時代が終焉し、小泉が特異なキャラクターで「旧構造の破壊」をなしとげたいま、求められているのは「破壊後の建設」であり、実務的な政策能力・政治力だ。しかし、そこでなぜ、憲法改正教育基本法改正なのか。やらなくてもよい課題が優先課題の上位に来るというのは、政治家としての低能さの証である。
加えて、憲法改正教育基本法改正という課題は、それがいかに保守勢力の悲願であるにせよ、専門的な憲法解釈の蓄積が存在している現在において、もはやナンセンスな政治課題だ。「憲法GHQの押しつけ」といったナイーヴな論理は時代遅れ。戦後日本は独立国家として、その都度の政治的現実を突き合わせ、一個の解釈体系を憲法に付与してきた。その経緯がある以上、憲法問題は、イデオロギー問題に還元されてはならない。
安倍は「専守防衛」について、「自衛隊を守ってくれている他の国の軍隊を、自衛隊自体は守ることができない。それでいいのか」などと主張しているが、「それでいい」のである。馬鹿か。自衛隊は、「他の国を守れない」という前提で海外派兵している。まさか、「他の国に面目が立たない」とでもいいたいのだろうか。こうした情緒性を防衛論議に混入させることはきわめて危険な行為である。外交上の選択は、つねに合理的計算の上でなされなければならない。この点でも、安倍に憲法9条を云々する資格があるとは思えない。
そもそも「美しい国」などというスローガンを立ち上げること、さらに憲法改正によって一国の象徴的理念の変革を企図すること、これらの行為は、立憲主義の原則と真っ向から背馳する行為にほかならない。宗教戦争以後の、相矛盾する諸価値の共存を前提に、近代国家は立憲主義を発達させてきた。相矛盾する諸価値が共存しうるためには、民主主義にも一定の規制が必要であり(=民主主義では決められないことを、民主主義で決められないようにする政治的仕組みを作らなければならない)、憲法を核とする立憲主義も、そのようなものとして発展させられてきた。憲法を民主主義的原則を優先させ、変更させようとする安倍のたくらみは、この点を全くふまえないものである。(=単一の価値を称揚することはいけない。余程のことがない限り、単一の価値に基づいて社会の基本的仕組みに変更を加えることもしてはならない。たとえそれが民主主義的原則にかなうものであるとしても。)
安倍の意図――戦後的理念を憲法改正によって一掃する企て――は、上記の近代国家の原則に照らして、野蛮かつ幼稚なものだ。立憲主義の根幹は、民主主義により、変更や決定が加えられてはならない。民主主義には限界が存在しており、その限界を制御するための立憲主義は、民主主義の上位におかれるべき原則なのだ。安倍は馬鹿だから、このことに気づかないのだろう。「美しい国」などという能天気な言葉はペテンでしかない。
憲法を改正するにしても、それは立憲主義の精髄を熟知した専門家が主導するものでなくてはならない。そして憲法改正などと放言する以前に、なすべき具体的な政策課題は山ほどあると私は思う。