『わが亡きあとに洪水はきたれ!』

斉藤茂男『わが亡きあとに洪水はきたれ!』(ちくま文庫、1974→1990)。本筋ではないが、以下、メモ。『素顔の××』

統計によると、青年労働者(二九歳以下)の学歴構成は、一九六五年(昭和四〇年)で小・中卒者が四七・八パーセントだったが、彼が入社した六八年でみると三八・二パーセントに減り、逆に高校卒は四十二・三パーセントから四九・五パーセントへと増えている。労働者の企業規模別分布をみると、年齢の若い層は大企業に働く比率が高く、中小・零細企業への就職者が少い。(133)

高校進学率の上昇。大衆教育社会化は、産業構成の変化によって導かれたものか、それとも学歴の社会的威信の高まりによって導かれたものか。この点について因果関係を特定することは可能か?

独占的な大企業ではすでに技術革新とアメリカ式労務管理の導入によって、中高年層の熟練工や技能労働者が不用になる一方で、技術革新に適応できる新しいタイプの単能工として、高校卒程度の知能水準をもつ青年たちを大量に必要としはじめ、六〇年代後半にこれらの青年層が独占的大企業のもとへ強力に吸引されていったことがわかる。
一九六〇年(昭和三五年)一二月に閣議決定した国民所得倍増計画をみると、すでにこうした労働力需給を見通して、教育の場を使っての人的能力開発政策がうたわれていた。この政策の綱領とも言われる「経済発展における人的能力開発の課題と対策」と題する経済審議会の答申が発表されたのは一九六三年一月。独占資本の代表たちで構成される経済審議会は、この答申によってそれまでの経済界から学校教育への注文を集大成し、“経済成長のための教育”という観点を国家の公教育政策の基本に据えさせたのだった。(133)

上記の記述では、資本の論理によって教育システムの論理が導かれたように読めるわけだが、「本当にそうか」と一応疑ってみることはできる。なぜなら、「高校卒程度の知能水準」が必要となったといっても、それがOJTなどによって補完可能だった可能性も考えられるからだ。なぜ「学校」だったのか。なぜ、学校への期待が生じたのか。本当に必要な教育内容を教育現場は提供しえていたのか。これらの点は、本質的に不明である。

人間を生産設備や原材料などの「物的資本」と同じように、経済成長を支える「人的資本」と位置づけるアメリカの経済学者の思想は、経済審議会答申に導入され、きわめて少数のハイタレント(官庁・大企業の経営管理層、高度の科学者・研究者、独創性のある技術者など)――いわば技術と社会組織を資本の意思を受けて管理・指揮する代理人層と、その支配下にあって、工程監視労働など単純労働力として機能する大量の労働者群との選別育成が課題とされたのだった。
財界代表も加わる中央教育審議会にバトンタッチされ、教育の世界へ持ち込まれた人的能力開発政策は、学校教育の現場にテストによる選別強化、高校の種類や教育内容の多様化を促進させる。「できる子」には高度の教育を、「できない子」には低レベルの教育で早く社会に出る準備を、という差別教育が徹底していく。

富山県の例を筆頭に県別の歴史比較が必要だろう。なお、これを「差別教育」と捉える視線に一定のバイアスが存在していることには注意が必要。一律の教育内容・目標だと良いのか、そうだとしてそれが何を達成しうるのか、という問題が残るからだ。

さまざまな環境条件から、もともとある個人個人の格差を、それぞれのハンディキャップに応じて手厚い能力発掘の手立てを講じるのが公教育本来の任務であるはずなのに、独占資本の要求を基礎にした国家の要請計画のもと、学校教育の現場は国家の定めた物差しで一律に「到達度」を測定することに熱中することになる。
国家の物差しを規準にした「出来高」で少年たちの優劣を決定してしまう悪しき能力主義は格差の再認識・再生産でしかない。経済成長をすべての出発点に置いた教育政策の中で、中学・高校の「ピンからキリまで」の格差固定化や、中高生の学力低下、非行、ノイローゼ、自殺、暴力的氾濫といったさまざまな荒廃現象が生まれたのは、当然だった。(134−135)

いろいろ言ったが、この本は本当に立派な仕事である。賞賛に値いするし、今こそ想起されてよい内容を誇っている。