溝口健二『西鶴一代女』(1952)

昨晩、新藤兼人『小説 田中絹代』(文春文庫、1986)を読んでいたら、やはり『お遊さま』は失敗作だったようで、田中も溝口もイメージがつかめないままに終わった作品であったらしい。戦後、新しさを求めて焦っていた溝口の模索段階の作品だったようだ。他方、『西鶴一代女』は戦後初の名作だという評価だったので、フィルムセンターまで走って見に行った。

(136分・35mm・白黒)「好色一代女」の映画化は溝口が長年温めていた企画で、野心あふれるプロデューサー児井英生を得て実現した。封建的な男性社会に弄ばれた女の波瀾に満ちた一生に焦点を当て、エロティシズムよりはむしろ女性の苦渋を克明に描いている。ヴェネチア国際映画祭で監督賞を受賞し、海外に溝口の名を知らしめるさきがけの作品にもなった。
’52(児井プロダクション=新東宝)(原)井原西鶴(脚)依田義賢(撮)平野好美(美)水谷浩(音)斉藤一郎(出)田中絹代、山根壽子、三船敏郎宇野重吉、菅井一郎、進藤英太郎大泉滉、清水將夫、加東大介、小川虎之助、柳永二郎、原駒子

正直、手放しでほめられる作品ではない。世間・運命に流されるプロットが類型的すぎる。田中絹代の若作りにも無理がある。西鶴の「人情物」(…というのは少し変だが。山東京伝とか為永春水あたりからだもんね。)の部分と溝口特有の無常観の部分とが十分につながっていないし、100分間は凡庸・冗長だ。
しかし最後の30分、老娼に身を落とした田中絹代の演技はすごい。面妖な化粧とけばけばしい衣装。様式的な映像と背後の読経。崩れた土塀に寄りかかって男を誘う娼婦の姿は、『カリガリ博士』の冒頭を想起させるものだ。溝口特有の世界観。
今日生まれた問い。溝口はなぜ失敗するのか?