折口信夫

昨日のテレビで中沢新一折口信夫について語っているのを見た。
古層としての神の概念に関し、折口はそれを共同体の外部から訪れるマレビトと考えたが、柳田は神は共同体に内在するもの、すなわち先祖信仰であると考えた。
この分岐はきわめて興味深いものだ。神を共同体の凝集力を保つ機能と考えれば柳田説に傾くが、そもそもその凝集力自体が何に由来するのかと考えれば折口の説が浮上してくる。
しかし、柳田と折口の説は「聖なるもの」の起源をめぐる理論仮説である点で両者ともに誤っている。「聖なるもの」と「俗なるもの」を二元的に構成するのは、そもそも人間の本性的属性である。人間は集合的な表象体系をつくりあげる生き物であり、それゆえ「聖」と「俗」とを共に構成しないわけにはいかないのである*1
したがって、聖俗理論の観点から、「共同体にとっての神とは何か」を再考すべきである。凝集力の維持機能(=柳田説)は、聖なるものが存在し、それにタブー化が施されることによって果たされる。一方、凝集力の現出機能(=折口説)は、タブーが解除され、それが本来もつ伝播性・伝染性が解き放たれることによって沸騰状態を生ぜしめることで果たされる。
こう考えれば、折口の「常世」概念が「聖なるもの」に準じる対象であり、「マレビト」はその聖性の解除によって共同体を賦活するものであることが了解できるだろう。
中沢によれば、折口のマレビト概念は「異質なものに回路を開く」点に求められる。これは聖俗のタブー化解除にほかならないが、そこに笑いが生じ、文芸が生じ、共同体が生じることを正しく把握していた折口の魅力は、たしかに否定できないものであるに違いない。
「マレビト」と「あたゐずむ」についてはこれ→http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20051223
折口のコカイン濫用についてはこれ→http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20060512

*1:もちろんここでその理論的前提について語る余裕はない。しかし、次の引用だけ示しておこう。「我々は聖なる諸事物が単に物的諸対象の上に固定された集合的諸理想に過ぎないことを示そうと努めた。どんな集合体であろうとも、そこで醸成された諸観念や諸感情は、それらの起源からして、ある優越性と権威を有している。そしてその優越性と権威は、それらを考え、信じている個々の諸主体が、彼らを支配し、支えている道徳的諸力の形態で表象させる。(SSA259−260)」