「レグレットする自己」の生起条件仮説

マンガをネタにインテリ的言動に及ぶ、ましてや丸山眞男などに言及するというのは、スノッブ的振る舞いの極致であるかもしれないが、そんなことはまあ気にせずに、『福沢諭吉の哲学』(岩波文庫)所収の「福沢諭吉の人と思想」より引用。

…繰り返し言いますようにこの舞台は、自分だけ演技して、あとは観客というのではない。すべての人が演技として人生を生きる。その術を学ばなければいけない、ということになります。これは後でまた申しますけれども、社会や政治だけでなく、われわれの人生そのものが結局は芝居なのだという、そういう見方が彼にあるのです。
これは、福沢だけではなくて、幕末から維新の激動期を生きた人の特徴です。よく夢のようだと言いますが、あまりに激動する世界に生きてきたから、到底現実にあったこととは思えない。そういうところから生まれた実感だと思われます。それはともかくとして、人生は、そこで大勢の人が芝居をしているかぎり、大事なことは、自分だけでなくて、みんながある役割を演じている以上、自分だけでなく、他者の役割を理解するという問題が起こってくるということです。理解するというのは、賛成するとか反対するとかいうこととは、ぜんぜん別のことです。他者の役割を理解しなければ、世の中そのものが成り立たない。(196)

激動が起こると、社会や自己への視野に落差が生じる。その落差自体が、リグレットというか、自己をメタ的に理解するための条件となりうる。自己がメタに理解できるということは、自己と他者をメタレベルの同一水準から観察するということだ。それが丸山のいう「芝居の感覚」、惑溺しない自己意識、というものなのだろう*1
阪神大震災オウム事件がそのような「落差」を誰に、どのように生じさせたかということは、まあ色々とご意見をうかがわないといけませんでしょうな。丸山自身、戦争という「落差」を経験したわけだが、それが戦後社会を生きる人々にどこまで他者感覚をもたらしたか、という問題も残るわけだしね。

*1:ちなみに、「芝居の感覚」ときたら「社交」文化に言及しないわけにはいかないですね。「社交」と「他者」感覚というのは非常に近い面があるわけでして。なおボードレールは社交を貴族文化ととらえつつ、それがデモクラシーによって頽落する時代にダンディーが生まれると述べております。これを見てね→http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20060114。あと情報・コミュニケーション環境は大きく変わったとはいえ、9・11テロはどう考えましょうか。