ハチのリグレット

TVで映画『NANA』が放映されていたのを、ほんのちょっとだけ見た。
いま深夜アニメでやっているのはナナの回想形式部分だが、前半部は聞いていたとおりハチの回想部分である。宮崎あおいちゃんのナレーションが入っていた。ちょっと思ったのは、宮崎あおいのハチと市川由衣のハチとでは、けっこう感じが違うのではないかという予感だ。この問題は、ハチの回想=リグレットがどのような性質のものであるかにも関わる。どっちにしても原作を読まないと判断できないのだけれど、ここのところがちょっと気になりはじめた。引用は、Mセンセの文庫版解説から(←ネットでも読める)。

■1996年頃になってようやく女子高生のブランドブームが終息しはじめる。バブル崩壊の余波が本格的にコミュニケーションを見舞った結果かもしれない。ただ、記憶の中の印象では、前年の阪神淡路大震災地下鉄サリン事件が、決定的な契機だったように感じる。
■大学時代に映画を作っていたこともあって、映画批評や映画コンペの審査の仕事を長くしてきている。興味深いことに、数多くの才能が1977年生まれ前後に集中するのだ。理由を彼らに尋ねると、多くが震災とオウムの騒動がもたらした精神的インパクトを挙げる。
ブルセラ&援交女子高生が誕生するのも1977年生まれ前後からだ。ブルセラ&援交が始まる1992年に15歳前後。そこから援交ブームのピーク1996年までを、私は「援交第一世代」と呼ぶ。メディアが注目した彼女たちは、活気と輝きと全能感にあふれていた。
■1996年に15歳前後だった子たちから始まるのが、「援交第二世代」だ。全能感は失われ、援交は「人に言えないこと」「カッコ悪いこと」「ACっぽいこと」になった。だから、通念とは逆に、援交するのは髪が黒くて肌が白いギャルでない子たちばかりだった。
■2000年に15歳前後だった子たちから始まるのが、「援交第三世代」。携帯所有率や携帯の出会い系が拡がったのもあり、援交は薄く広く拡散した。薄くというのは、常習でない臨時援交が増えたことを言う。携帯代や旅行代が払えないときの、消費者金融代わりだ。
■すると、私が取材していたのは主に「援交第一世代」までということになる。年長の主婦から「援交第一世代」までであれば、話を聞いて共感的に理解できた。世間は援交女子高生らをエイリアンとして扱ったが、私にとってのエイリアンは「援交第二世代」以降だ。
■共感的な理解の可能性を左右していたのが、今思えば「願望水準と期待水準の落差」だったと思う。現実を学んで適応が進み、期待水準が下がる。でも自分としての自分の願望(夢)が実存を規定する。その意味で、行動と実存との間の差異が大きかったとも言える。
■「援交第一世代」までの女性たちは、ナンパの時も取材の時も、見も知らない私に本当にたくさんのことを喋ってくれた。家庭や学校のこと、彼氏や友達のこと、幼少のこと、現在の自分と社会について思うこと。私のフィールドワークはそれを前提にしていた。
■本当は夢を抱いているのに、現実には期待しないという彼女たちの多くは、自分たちが本当は抱いている夢について話したがっていたし、その夢をわかちあってくれる人を探していた。理解してもらいたがっていた。それに応じるのが、私のフィールドワークだった。

太字の部分については、今年の忘年会の話題にしてみたいね。じつは今週か先週の『SPA』でも、福ちゃんが「27歳から30歳くらいの子はほんとにいい」と評価してた。ツボちゃんと福ちゃんのは「ネット世界とリアル世界とのバランス云々」という文脈だったけど、実際の所、どうなのだろう。現実の非自明性(底割れ)感覚とでもいいますか…。

■そんなこんなの理屈を、全部踏まえて言うと、私は、夢と現実との間で引き裂かれた「援交第一世代」の女の子たちが気に入っていたのだろう。彼女たちの中に、夢と現実の間で引き裂かれた私自身を見出していたのだと思う。そこには明らかに自己肯定願望があった。
オウム真理教問題を扱う『終わりなき日常を生きろ』上梓が『テレクラという日常』を出すのをやめる契機になったのも、それが関係するようだ。「夢と現実との間で引き裂かれるがゆえに現実ならざる虚構にコミットする同世代」を描けたので、気が済んだのだ。
■「夢の時代」から「虚構の時代」に変わったとしても、「第一世代」が退却する96年までは、現実を舞台に夢を追求できないことへのリグレット(慚愧の念)があったということだ。だから慚愧の念が薄れて以降を「動物の時代」とする再区分(東 浩紀)も出てくる。
■時代区分は後知恵だからどうでもいい。1985年から1996年までの十年間余りのフィールドワーク期間、とりわけ本書のベースになる文章を書いた93-94年頃までは、非恋愛的な性に乗り出す少女たちの間に「現実化が断念された夢」があったことを記しておきたい。
■当時の私は、ほどなく、現実化の断念(期待水準の低下)を後追いして夢の忘却(願望水準の低下)が訪れることなど、想定していなかった。今から振り返れば『まぼろしの郊外』に一部記したように90年代に入る頃にはその兆候があったのに、意識化できなかった。
■「援交第一世代」の少女たちとの交流は、断念された夢を語り合うことだったよう思う。断念された夢を「まだ」語り合えたのだ。だからこそ、あの時代が今の私にはとてもポジティブだったように感じられる。今では「もう」語り合えない。残念だと感じる私がいる。

NANA2』を見ることはないような気がするが、マンガはいつか読んでみたいと思っている(のだけど、どうなるか…)。ハチは援交第一世代か、それともそれ以降の世代になるのか。
なお「融通空間」(http://d.hatena.ne.jp/Hiroumix/20061209/p1)で、『西鶴一代女』のラストシーンが専門家の立場から解説されているので、参照のこと。