絶対読もう、『これが憲法だ!』(朝日新書)

大推薦したい一冊。きちんと理解するには教養が試される面もあるように感じるが、ここでの知識を前提として政治的討議がなされるようになれば、世の中もっと明るくなると思いますね。

杉田 …いわゆる改憲論が九条をめぐって盛り上がる究極のところには、民主的に選ばれていない専門家、つまり議員ではなくて、内閣法制局とか憲法学者がこの問題についての解釈権を独占することへのいらだちがある。もっとはっきりいえば、要するに法律専門家が偉そうにしているのが気に入らない。……
長谷部 …そういう思いはとてもよくわかりますが、これ、憲法なものですから。憲法というのは、民主的な政治過程を外側から限定するのがもともとの役割なんです。それについての専門家というものがいるとすると、その専門家が民主的な手続きで選ばれなければならないとしたら、これは憲法の機能に矛盾しています。だから、民主的な政治過程とは独立に、憲法の専門家がだれかいないといけないと思いますね。/ですから、その専門家に「憲法はこういう縛りを置いている」と言われて腹が立つという気持ちはとてもよくわかりますが、「憲法はそういうものだから我慢してください」と言うしかないと思います。(74−75)

杉田先生は憲法に対する国民の当事者意識を、憲法をより身近なものとすることによって強化したいと考えている。しかし長谷部先生は、憲法原理(「準則」ではない)は立憲主義にもとづく合理性をそれ自体として有しているのだから、そうした合理性の水準と国民の当事者意識とは、原理的に無関連でしかありえない、との見解を示している。むしろそうした憲法原理について国民が理解を深めることなしに、憲法への国民の当事者性は育まれようがない。そのうえで長谷部先生の次の発言は切実な課題を孕む。

長谷部 …現在の民主主義の質がどうも劣化しているんじゃないか、と思うんです。ものごとを深く考える前の、有権者の直感なり感じ方なりを随時、調査集計したり、どうやって「世論」を動かすかということに政治のエリートの関心が集中してしまっている。ですからやはり、そういうものとは違った政治の討議の回路が必要です。前にご紹介したアッカーマンの「討議の祝祭日」の他にもいろいろあるかもしれませんけれども、なんとかして有権者が真面目に議論できて、それが政治のエリートに反映される経路をつくらなければ、と思いますね。(121)

というわけで、絶対必読の新書であるのは間違いなし。しかし「憲法原理」を軸に社会のマクロ理解が可能と見なす境地にまでは、私はまだ至らないなぁ。

長谷部 …これは「憲法帝国主義だ」と言われるかもしれないですけれども、国益国益の対立は必ずしも国家間の深刻な対立を生み出すわけではなくて、国家間の深刻な対立が生み出されるのは、やはりそれが政治体制と政治体制の対立に翻訳される場合だろうと思っています。太平洋戦争が終わったとき、なぜ日本が「憲法」を変えなくてはいけないかというよりは、なぜ「憲法原理」を変えなくてはいけなかったのか。あるいは冷戦はなぜ終わったのか、そもそも冷戦とは一体何のために戦われてきたかを考えるためには、やはり、どういう憲法原理が対立していたのか、という視点を抜きには語れないんじゃないでしょうか。(199)

P・バビット教授の説である。この視点の可能性を内在的に検討するには、まだまだ修行が必要なようだ。
とにかく皆さん、今年のうちに必ず読みましょう。杉田先生の質問に長谷部先生になったつもりで回答を考えながら読むと面白い。