溝口健二『愛怨峽』(1937)

大雨のなかをすべてを打っ棄ってダッシュでフィルムセンターへ。

(89分・35mm・白黒)溝口の新興キネマ第1作で、新興のいわばアイドル・スターだった山路ふみ子が主演した。川口松太郎による提案で、トルストイの「復活」をもとに依田が独自の展開を書き加えて脚本化したもので、前2作と違い、気弱で行動力のない男を憐れむ余裕のある自立した女がヒロインとなった。長らくの間、劣化して上映不能の16mmプリント一本しかなく、今回のプリントはそこから複製したもの。
’37(新興キネマ東京)(原)川口松太郎(脚)溝口健二依田義賢(撮)三木稔(美)水谷浩(音)宇賀神味津男(出)山路ふみ子、河津芿三郎、芿水將夫、三桝豊、明芿江、加藤精一、田中春男、野辺かほる、浦辺条子、大泉慶治

双葉氏解説。

信州の温泉町、宿の女中おふみ(山路ふみ子)は若主人謙吉(清水将夫)と恋におちて東京へ出奔するが、謙吉は連れ戻しにきた父について、身ごもっている彼女を捨てて帰郷してしまう。おふみは旅回りの一座とアコーディオン弾きの芳太郎(河津清三郎)に助けられる。巡業で訪れた温泉宿でおふみは謙吉に復縁をせまられるがきっぱり断り、子どもを連れ芳太郎と芸人の道を歩み始める。/ただの甘いメロドラマではない。前年『浪華悲歌』、『祇園の姉妹』で女性の生き方をくっきりと描いた溝口健二監督が、今回も女性をピリッと描写した。またこの作品は山路ふみ子の映画でもあって、きれいな甘い女優のイメージだった彼女が一代の名演を披露した。(8)

睡眠時間が足りていなかったこともあって万全とはいいがたいコンディションなうえに、フィルム自体の劣化がかなり激しく、つらい面があった。しかし1937年という時点でも一貫してモダニズムの雰囲気を描き、またいわゆる私小説的ではない、ウェルメイドな娯楽性を追求した戦前期溝口の特徴がよく分かるという意味で、見る価値は十分にある映画だと思う。とくに『浪華悲歌』『祇園の姉妹』の両作品が山田五十鈴の圧倒的な才気に引っ張られ、溝口映画としての特色が見えづらい面があったので、あらためて溝口自身の奥行きをはかる上で役に立つ鑑賞であった。
依田義賢の脚本は双葉氏はベタ褒めしているが、やはり粗が目立つ。いわゆるうまいストーリー展開ではない。定型におちたり、冗長な部分が残ったりといった欠陥がある。今回も謙吉の優柔不断さと世渡りの上手さ、芳太郎の落ち着きぶりと喧嘩っ早さ、といった二面性をうまく処理しきれていなかった。おふみが弱い女だったのに突然毅然となる脈絡も、芳太郎の二年間の刑務所ぐらしの時間経過が描かれていないため、まったく見えなかった。
それでも吹っ切れたおふみの謙吉にたいする態度は、溝口特有の人間観の深みを示しており、見ごたえのあるものだった。その意味で、山路ふみ子の演技はやはり素晴らしい。山田五十鈴には天才性を感じるが、山路はそこまではいかないとしても、やはりなかなかのものである。最後の子どもと家を出て行くときの啖呵は痛快であった。
失敗作品のなかにも部分部分の素晴らしさはあり、それらをじっくりと見つけていったなら、『雨月物語』をはじめとする傑作作品に接したときの感動がいっそう大きくなるのではないかと、今回の企画を見終えて、感じた。後期傑作作品を見ただけでは溝口は理解できないし、またそれだけでは後期傑作作品の傑作性も、ほんとうには分からないのだと思った。