『日本文学史』と関西文化論

帰省。疲労でぐったりで気分は最悪、しかもチケットを準備していなかったのでどうなることかと思ったけど、4時半くらいの新幹線の自由席になんとか乗り込めた。やはり結構な混雑。でも横にすわったのが中国人で、中国語の内容はまったくわからないため、良い感じに読書に集中できた。
車中、小西甚一『日本文学史』(講談社学術文庫1953→1993)を読了。解説執筆のドナルド・キーンが、50年ほど前、京都発東京行きの列車のなかで同書を読んだと書いている。キーンの紹介でこの本は有名になり、しかし長らく絶版であったことから、「幻の名著」とされてきたということらしい。実際、「名存実亡の適例」「世間には『幻の名著』という称号だけが虚存した」と著者は謙遜しているが、読んでみるとどうもやっぱり名著ではないかという気がする。
本書は「古典派対浪漫派」の対立軸を援用しつつ、「雅と俗」ならびにその中間形態としての「俳諧」(雅俗)という図式を立て、古代以来の文学史を俯瞰している。各作品が文明史的背景のもとに的確に位置づけられ、個々の作品への真率な批評が素晴らしい。何度も繰り返して読みたい箇所がいくつも見つかる(雅との格闘から俗への到達に至った紀貫之藤原定家世阿弥芭蕉らへの批評も素晴らしいし、柿本人麻呂にとっての壬申の乱、13世紀初頭の歌壇における武家との対抗意識といった「動乱のなかでの文学的水準」といった視点も興味深い)。
なお中世第三期、享保後の文藝は「逃避精神」において特徴づけられるのだという(江戸前期は松尾芭蕉井原西鶴近松門左衛門らに代表されるが、享保後はぐっと小ぶりになって与謝蕪村上田秋成河竹黙阿弥らが代表人物となる)。この背景には、江戸幕府による町人勢力への風紀引き締めと、資本主義経済の安定化による階層秩序の固定化があったのだが、しかしこのことは、関西文化論としても興味深い視点を含んでいるのではないかと考えた。関西文化にはどうも内向きというか、ムラ社会的というか、これがコミュニケーションへの高度な感受性(お笑い文化)を生んでいることもたしかとは思うものの、停滞的な側面があるように思われる。現実社会を笑い飛ばすのも結構だが、それは逃避にほかならず、また実は江戸文化にもそういった逃避精神の美学が脈打っているようにも思われるなかで(小林信彦氏の作品!)、薩摩長州エートスによって近代化が施された東京とは異なり、大阪を中心とする関西文化圏には近代的切断が加えられる以前の享保後江戸期カルチャーが残存しているように感じられる。妄想かもしれないが、おもしろいと思いませんか?
ともあれ、おすすめ。この本一冊で、相当知ったかぶりが出来ます。

日本文学史 (講談社学術文庫)

日本文学史 (講談社学術文庫)