山田洋次『武士の一分』(2006)

山田洋次監督。観てきました。
壇れいばかり見ていた、といっても過言でありませんが、懸案となっていたキムタクの演技にもいちおう目を光らせてきました。なんといっても脚本が結構うまくできているので(「安心して観られる正月映画」の域ではまずまずの高水準に達しています)、役柄の方向性はあらかじめ固まっており、その枠内でなかなかの演技をしていました。
ただし、若干の違和感が残ったことも事実です。これはもっぱら脚本の問題になるかと思いますが、キムタク演じる主人公が「二枚目美男子」的であるのか、それとも男くさい「辛抱立役」なのか、軸がぶれているように感じられました。読書中の佐藤忠男溝口健二の世界』(絶対の名著!後日紹介)にこのような記述があります。

日本の伝統演劇である歌舞伎においては、男の主人公の役柄には二つの型がある。ひとつは辛抱立役と呼ばれるもので、強くて立派で思慮も深く、男らしい性格である。西洋の演劇におけるヒーローに相当するが、ただ、騎士道物語のヒーローなどとは違ってほとんど恋愛はしない。もうひとつは二枚目と呼ばれるもので、美男子であって女性にやさしく、純情であり、女性の愛なしには生きられないのでもっぱら恋愛をする。ただしその多くは、性格が弱かったり、あるいは軽薄であって、とても男らしく頼もしいとはいえない。(134−135)

儒教道徳の影響のもと日本の映画界は男らしさとメロドラマを両立させることが出来なかった、それゆえに男らしさはもっぱら時代劇で描かれることになった、そのなかで溝口はメロドラマを描きつつ女を裏切る男からつよく自立していく女を描くことになった、と論旨は続くのですが、この観点からすると、「辛抱立役が描かれるべき時代劇」という約束事から、『武士の一分』ならびにキムタクの演技はずいぶんと離れているように感じられました。
キムタクの自然体風演技、彼に特有のニヒルな照れ笑い、これらは女性に軽口を叩く主人公のキャラクターをしっかりとなぞったものですが、あきらかに二枚目美男子のものであることは言うまでもありません。しかし、復讐に燃える闘う主人公の姿は、その一方、辛抱立役のものなのです。この両立が果たしてうまくいっていたのか、矛盾はなかったのかという点が、この映画を観ての最大の疑問でした。もちろん、キムタクにこの矛盾が意識されているようには感じませんでしたけれど(最大の武器である美男子の甘さを十分に生かしていたことは称賛に値しますが、辛抱立役の面での厳しさの表現はいまひとつだったということです。かなり厳しい評価ですけど)。
ともあれ、まずまずの楽しめる映画であったことは間違いありません。