佐藤忠男『溝口健二の世界』

まだ半分くらいしか読んでいないけれど、この著者はただの男ではない。つまらないギャグを言っている場合ではないくらい、この本は素晴らしいと思う。
新派劇の文化圏内から出発した日本映画界にあって、溝口は、立身出世する男の犠牲となって零落しつつも、自前の信条を見出し、それを貫いて生き抜く女たちを描いた(そこには贖罪の意識が込められている)。泉鏡花原作『折鶴お千』という作品は失敗作とされているそうだが、本書での佐藤氏の取り上げ方を読めば、それを観なかったことが悔やまれて仕方がない。

……溝口はあんな古めかしい明治ものの情話の世界などにどうしていつまでも沈潜しているのか、という非難の声が高かったのは当然であると思う。/しかし、作家には必要な足踏みの作品とか、己の主題の原型をまさぐっているだけで、全体としては支離滅裂になってしまう作品というものがきっとあるのではなかろうか。すぐれた作家ならば、である。そういう作品は、全体としては誉められたものにはならないが、部分的にはきっと痛烈なイメージを含んでいる。「折鶴お千」はそういう映画であり、私は、お千と宗吉の、出会い、別れ、再会、そしてラストのお千の狂乱の、これらの場面だけでもこの映画は十分に素晴らしいと思う。(173−174)

山田五十鈴のお千が見たい。フィルムセンターで山田五十鈴特集をやってくれないだろうか。『山椒大夫』について。

……「山椒大夫」のこのラスト・シーンは、明らかに「折鶴お千」のラスト・シーンの発展であり、「折鶴お千」でそう演出しようとしてついに出来なかったことが、一九年の後にやっと出来たのだ、というふうに見るといっそう感動的であると思う。(175)

…この、田中絹代と花柳喜章の、砂浜をいざり寄りながらの感きわまった互いのまさぐり合いの身ぶり手ぶり体ぶりがまことに絶品というよりない磨きぬかれた出来ばえなのであるが、この抱擁は、溝口が、仏教的な精神を手がかりとして、ついに女に許しを請うポーズを発見し得た、ということであろう。ポーズを発見するということは、芸術にとっては、その中味を発見するということにほかならない。なぜなら芸術というものは精神の型の不断の発見と創造にほかならないからである。そして、もし「山椒大夫」のラスト・シーンにそのような意味があると認められるならば、それは溝口にとって至福の瞬間であったと思うのである。いや、それが溝口にとって至福の瞬間であったかどうかは厳密なところは断定はできないわけであるが、一観客としての私にとっては至福の瞬間であり、その至福感は溝口の至福感が私に放射されたのだと信じるのである。(176)

このシーンの崇高さは特別なものだと私も信じている。

溝口健二にとっては、彼の人生を芸術が模倣したのではなく、むしろ、彼の芸術を、彼の人生が模倣するかたちになったようである。そして、その芸術というのは、彼個人の人生観を超えた、男と女の社会的な関係の基本的な矛盾と、とくにその矛盾を濃縮することにおいて成り立った明治以後の日本の男の立身出世主義の罪悪というものをがっちりとふまえた悲劇であった。だとすれば、そのような悲劇を彼の人生が模倣する結果になったということは、彼の人生はひとつの殉教であった、ともいえることであったのかもしれないのである。日本の近代が必然的におかした悲劇を、溝口は鏡花という濾過器を通じて濃縮して受け止め、それをさらに自分の実人生で濃縮して、ついに晩年の一連の秀麗な、聖なる犠牲への敬虔な祈り、に達したのである。(177−178)

新派の伝統に立脚しつつ、そこからリアリズムを生み出していった溝口は、その道筋のなかに破綻を含みながらも、というかむしろ、その破綻のなかにおいてこそ、近代日本の歪みに基づくリアルな主題を育むことになった。その歪みとの格闘は、映画との格闘であるとともに人生との格闘でもあり、それが溝口作品の真実性を−−失敗作品のなかにさえ濃厚に窺われる真実性を−−保証するものとなったのである。

溝口健二の世界 (平凡社ライブラリー)

溝口健二の世界 (平凡社ライブラリー)