メモ

教育と通信
人々は自分が欲する結果を得るために互いに他を利用しあうが、そのとき自分が利用する人々の情緒的および知的性向や同意を顧慮しはしない。そのような利用は、肉体的優越、または地位や熟練や技術的能力の優越、および機械的ないし財政上の道具の支配をものがたっている。…命令を下したり受けたりすることは行動や結果に変化を及ぼすけれども、そのことはひとりでに目的の共有や関心の共有をもたらしはしないのである。17

功利的な結びつきは社会生活にとって本質的ではない。共に生活し、そのことで経験が拡大され、啓発される場合においてのみ、社会の生命は存続していくのであり、そのような場合にはじめて、教育は正しい社会的機能を持ちうる。

制度的な教育の位置
…しかし文明が進歩するにつれて、子どもたちの能力と大人たちの仕事の間のギャップは拡大する。大人たちの仕事に直接参加することによる学習は、あまり進歩していない仕事の場合のほかは、ますます難しくなる。…そのため遊戯としての模倣は次第にその真意を再現するのにますます不適当なものとなって行く。意図的な機関――つまり学校――およびはっきりきまった教科――つまり学科――が案出される。…21

教育には非制度的なものと制度的なものとがある。文明の進歩と社会の複雑化によって、制度的教育が要請されるようになる。制度的教育においては、記号(言語)が重要な意味を持つようになるが、それが自己目的化したのでは、十全な教育はなしえない。あくまで生活経験の主題と結び付けられた状況下で、教育は遂行されるべきである。

環境の本質と意味
…環境は、ある生物に特有の活動を助長したり、妨害したり、刺激したり、抑制したりする諸条件から成り立っているのである。…生活は、単なる受動的生存(そういうものがあると仮定してのことだが)にすぎぬものではなく、行動の仕方を意味するのであるからこそ、環境または生活環境とは、この活動の中に、それを維持したり、挫折したりする条件として入り込むものを意味するのである。27

社会的環境
…社会的生活環境は、一定の願望や観念を直接植えつけはしないし、また、打撃に対して「本能的に」瞬きしたり身をかわしたりするような、ある種の全く筋肉的な行動習慣を確立することにとどまりもしない、ということに気づくだろう。一定の見たり触れたりすることのできる具体的な行動様式を刺激するような情況を設定することが、最初の段階である。そして、個人をその共同活動の参加者すなわち仲間にして、彼がその成功を自分の成功と感じ、その失敗を自分の失敗と感ずるようにすることが、その完成段階である。31

生活にとって環境は条件となる。社会的環境としての他者の活動もまた、個人の生活の条件である。このうち、環境が個人の外面的行動を条件づける際には、「訓練」が実現されている。他方、共同生活の参加者として個人の行動が条件付けられている場合には、社会的環境は「教育」の実現条件をなしている。
なお観念を直接、個人に移植することはありえない。言語においても、「ボウシ」という音声は、理解可能な音声という事実に立脚しつつ共有された経験と関連づけられることによって始めて、内面的な観念・意味を生成させる。

第2章要約
この特別な環境の比較的に重要な三つの機能を列挙すれば、それによって発達させることが望まれている性向の諸要素を単純化し、順序づけること、現存する社会的慣習を純化し、理想化すること、子どもたちを放任しておいたら、おそらくその影響を受けるであろうような環境よりも、いっそう広く、いっそうよく均衡のとれた環境を創り出すことである。45

三点目について。昔は集団は地理的に相違していたが、通信等の発達によって互いの結びつきが強まった現代では、多元的な集団が合衆国内部に含まれるようになった。これが学校内で混合されることによって、「いっそう広大な視野に立つ統一的な見地」(43)を実現することが可能である。もちろん環境間の差異がもたらす人格統合上の不安定性は、教育によってその環境整備がなされなければならない。→多元性が普遍性をもたらすことへのオプティミズムの傾向は若干見受けられる。誤りではないけど。

指導的なものとしての環境
…事物について他の人々がもっているのと同じ観念をもち、他の人々と同じ心になり、そのようにして真にある社会集団の成員になるということは、事物や行為に対して他の人々が付与するのと同じ意味を付与することなのである。そうでなければ、共通理解もなく、共同社会生活もないことになる。…共同の活動においては、各人は、自分のやっていることを他人のやっていることに関係づけて考え、また、他人のやっていることは自分のやっていることに関係づけられる。すなわち、各人の活動が同一の総括的情況の中に位置づけられるのである。57

事物や行為と自己との関係が第一次的な関係なのであって、他者と自己とのあいだに第一次的な関係性は成立しない。

…以上の論述の正味の帰結は、統制の基本的手段は、人的なものではなくて、知的なものであるということである。他人からの直接的な人的働きかけという方法は危機的情況においては重要であるけれども、基本的な統制手段は、他人からの直接的な人的働きかけによって人が動かされるという意味で「道徳的」なものではないのである。61

周りの情況に関連づけて行動を統制するとき、個人の行動は社会的統制下にあるといえる。そうした統制は、他者と事物の関係を学習することによって、事物を扱い慣れる過程で組織される、理知的反応としての「知力」に基づいている。「道徳性」が超越的なかたちで存在し、それが直接「注入」されるといった想定は、この意味で誤りである。「彼は行動の手段を模倣するのであって、目的すなわちなすべきことを模倣するのではない。そして、彼が手段を模倣するのは、彼が、自分自身のために、自分の方から進んで、その遊びをうまくやりたいと思うからなのである。」(65)この考えを教育に応用するならば、「事物に対する直接的で連続的な作業ができるようにし、それを保障すること」が可能であるように、学校環境は組織されなければならない(70)。「書物的な、擬似の知的精神」は知識学習の自己目的化であり、斥けられるべきものである。

発達という概念の教育的意味
教育は発達である、といわれるならば、その発達をどのように考えるかで、すべてが決まってくる。われわれの正味の結論は、生活は発達であり、発達すること、成長することが、生活なのだ、ということである。このことを、それと同じ意味をもつ教育的表現に翻訳するならば、それは、(鄯)教育の過程はそれ自体を越えるいかなる目的ももっていない、すなわち、それはそれ自体の目的なのだ、ということ、および、(鄱)教育の過程は連続的な再編成、改造、変形の過程なのだ、ということになるのである。87

これまでに批判してきた三つの考え、すなわち、未成熟を単に欠如的なものでしかないとする考え、適応を固定した環境への静的な適応とする考え、習慣を硬直したものとする考え、これらはみな、成長ないし発達についての誤った考え――すなわち、それは固定した目標に向かって進む変化だ、という考え――と関連している。成長は、それ自体が目的であるのではなくて、目的をもつものとみなされているのである。88

こうした誤った考えによって、子どもは本能的な生得的能力を失い、情況に対処するための独創力の発達可能性を失い、自動的な熟練のための犠牲を強いられる。生得的能力は、到達されるべき目的にとっての障害物となる。しかし、ほんらい成長とは、「成長の過程」それ自体を目的とするものである。「より以上の成長」こそが成長の目的なのである。したがって学校教育は「成長を保障する諸能力を組織することによって教育の継続を保障すること」をその目的としなければならない(89)。言うまでもなくこのことは、各教師に「測り知れないほど大きな要求を必然的に伴うものである」(91)。