有機物雑感

人込みのなかに居るときとかによく考えるのだけど、こんなにたくさん人がいて、ひとりひとりが毎日一個うんこをしているのだとしたら、それってかなりスゴいことなのではないかと思う。近代社会は死を不可視の存在へと追いやったけれど、うんこも相当追いやられているのではないかと思う。
福岡伸一さんの『ロハスの思考』を読んだときにも思ったけど、けっきょく人間は有機物の循環システムの結節点にすぎないのだ。毎日皮膚とかもポロポロ剥がれ落ちるし、うんこだって細菌とか古い細胞でできている。オシャレな美女やえらい人も、その身体の中は直腸に近づくにつれて、たいへんな状態になっている。手術のあとで「ガスは出ましたか」などと聞かれるのも、ずいぶん恥ずかしいことだろうけど、その恥ずかしさの機微にこそ、敏感でありたいものである。
私もときには、「人間なんて、身体のなかにうんこを隠して、表面だけ衣服で着飾って、いったい何がしたいんだろう、着飾ったってほら、肛門にうんこのカスが残っているじゃないか」と、自己嫌悪のまじった悪態をつきたくなるが、でも、かわいい甥っ子がハイハイ歩きをしたあとで、立派なうんこを見事にするのを目撃すると、ああそれが生きる証なんだなと感動したりもする。たかがうんこ、されどうんこだ。
大掃除で窓ガラスを拭くときにも、どうせ有機物なんだから、有機物だけに囲まれて生活しておればよいものを、人間は石器だの鉄器だの青銅器だのを発明し、あげくのはてにはガラスとかコンクリートとかで出来たビルディングを建ててしまって、ほら、けっきょくガラスに有機物であった証拠(脂)が付着しているじゃないか、無理すんなよ、無理するから、ガラス吹きなんてしなくちゃならないんだよ、吹くのは自分のお尻だけでたくさんだよ、などと思ったりもし、便器で糞がこびりついているのを見ても、そう思うのだが、でもそれが、本能の壊れた人間、すなわちパンツをはいたサル、というものなのだろう。
私は人間がなぜ本能が壊れたのか、言葉などという余計なものをもつようになったのか、という点にかんして、「それは人間以前のサルが肉食をするようになったから、脳の活動力が増大したから」という仮説を信じているのだが、だとすると人間は肉食をしたから自分がうんこをすることに目を背けるようになった、つまり、うんこを周縁的に位置づける文化をつくりあげたのだ、ということになる。肉さえ食わなければ。自分で自分にご苦労様。
1月は映画を16本観た。