「いなせな稼業ということが、やくざの稼業なんですね」

「やくざの稼業をやっていても、やくざの生活はするな、というのがやくざの本道ではないかと思うんです。」(山田宏一次郎長三国志――マキノ雅弘の世界』(ワイズ出版))

これは、ぼくの「やくざ」の定義なんです。ぼくはやくざをかなりよく知っていますけれども、いまのやつらは、やくざの稼業をしないで、堂々と運送屋なんかやっていて、それでいて、やくざの生活をやろうということですよね。やくざな暮らしを立てようということですよね。そのあたりが、終戦このかた、どうもいかんと思うのですよ。最近の東映のシャシンもそういうかたちですよね。言うなれば、乞食もやくざの稼業ですよね。そこで屋台を出しているうどん屋もやくざの稼業なら、火消しでも、そうだし、やくざの稼業というのはたくさんありますね。すくない金をもらって、それでパーッと走っていって、なんでもやる。ふだんは貧しく長屋住まいしているけど、金がないものだからね。しかし、いつも他人からいなせな、しゃれた男だなと思われるために、仕事場でカッコつけたり角帯をぴしっと結んだり、刺青をしたりね。つまり、いなせな稼業ですね。いなせな稼業ということが、やくざの稼業なんですね。しかし、やくざは、いなせに暮らしても、やくざに暮らすな、ということですよね。やくざな稼業をしていても、やくざに暮らすなということ、こういうことがあればこそ、徳川時代から、やくざの世界というのがずっとつづいてきたのでしょうね。(52−53)

博打についても詳しく知りたい今日この頃。