タルコフスキー『鏡』(1975)

『ЗЕРКАЛО / Mirror』

1980年、日本公開時のチラシ
[スタッフ]脚本:アレクサンドル・ミシャーリン、アンドレイ・タルコフスキー/撮影:ゲオルギー・レルベルグ/音楽:エドゥアルド・アルテミエフ/挿入詩:アルセニー・タルコフスキー
[キャスト]母マリア、妻ナタリア:マルガリータ・テレホワ、父:オレーグ・ヤンコフスキー
少年時代の私、息子イグナート:イグナト・ダニルツェフ、幼年時代の私:フィリップ・ヤンコフスキー、行きずりの医者:アナトーリー・ソロニーツィン、ナレーション:インノケンティ・スモクトゥノフスキー、詩朗読:アンドレイ・タルコフスキー
1975年/モスフィルム製作/長編劇映画/35mm/スタンダード/カラー/110分 配給:ロシア映画社/日本公開:1980年
[解説]
この作品は、アンドレイ・タルコフスキー監督の自伝的映像詩である。映画は、作者である"私"による一人称形式で進行し、"私"が胸に秘めている母への思いや、別れた妻や息子との間に織りなされる感情の綾を意織下の過去と現実を交錯させながら浮かびあがらせていく。
すでに、タルコフスキー独特の巧みな演出は、木立を抜ける風のそよぎにも人間の心象を映し出して見せると言われてきた。この作品でも、"水"や"火"といった自然現象がこの監督独自の映像となって、美しい幻想的なイメージのなかに繊細かつ鮮明に語りあげている。意識下の過去と現実を巧みに交錯させて作者の深層心理を浮き彫りにしてゆく独特の映像表現には、タルコフスキー映画のファンのみならず酔いしらされてしまう。この作品は、作者の深層心理を鮮烈なイメージにして浮かびあがらせた映画による詩と言えよう。
また、ソ連成層圏飛行、スペイン戦争、第二次世界大戦、中国の文化大革命中ソ国境紛争(ダマンスキー事件)などの数多くの記録フイルムの断片が随所に挿入され、歴史の現実が個人の生き方に与えるさまざまな波紋を暗示している。
撮影は、詩的で流麗なカメラワークで知られるゲオルギー・レルベルグ。ロシアの自然を象徴的に見事に捉え、タルコフスキーの心象風景ともいうべき非常に印象的なカットを生んだ。音楽は『惑星ソラリス』のエドゥアルド・アルテミエフ。
作者の母と作者の妻の二役はモスソビエト劇場のマルガリータ・テレホワ(『遠い日の白ロシア駅』71 他に出演)が演じる。オレーグ・ヤンコフスキー(『ノスタルジア』他)は親子での出演。加えて『アンドレイ・ルブリョフ』以来のタルコフスキー作品の常連、名優アナトリー・ソロニーツィンらが出演している。また、名優インノケンティ・スモクトゥノフスキーがナレーションを担当。
母の描写に挿入される詩は、監督の父アルセニー・タルコフスキーの作品で、監督自ら朗読している。
[ストーリー]
私の夢に現われる母。それは、40数年前に私が生まれた祖父の家。うっそうと茂る立木に囲まれた家の中で、母は、たらいに水を入れ髪を洗っている。鏡に映った、水にしたたる母の長い髪が揺れている。あれは1935年田舎の干し草置場で火事があった日のこと。その年から父は家からいなくなった…
私は突然の母からの電話で夢から覚め、エリザヴェータが死んだ事を知らされた。彼女は、母がセルポフカ印刷所で働いていた頃の同僚だった。
両親と同様、私も妻ナタリアと別れた。妻は、私が自信過剰で人と折り合いが悪いと非難し、息子イグナートも渡さないと頑張っている。
妻のもとにいるイグナートのことは、同じような境遇にあった自らの幼い日を思い出させる。赤毛の、唇がいつも乾いて荒れていた初恋の女の子のこと。同級生達と受けた軍事教練のこと。それは戦争と、そして戦後の苦難の時代でもあった。
そして、哀れだった母のこと。大戦中、疎開先のユリヴェツにいた時、母に連れられて遠方の祖父の知人を訪ねて、宝石を売りに行った…。
母の負担になったかもしれない自分の少年の日々のことを思うと、私の胸は疾く。イグナートが同じ境遇をたどっているのかも知れないと思うと、さらに私を苦しめる…

吃りの少年。催眠術師。草原。風のそよぎ。セピア色。こぼれたミルク。子犬。炎の中の小屋。井戸。崩れ落ちる壁。水と炎。洗面桶。髪の毛。滴る水滴。どしゃぶりの雨。印刷所。長い廊下。スターリン。純粋主観としての声。朗読。コーヒーとクッキー。コーヒーカップの残した曇り。射撃訓練。手榴弾。原爆。革命。鶏。舞い上がる羽毛。鏡。鏡の中の少年。少女。唇の上の血。開かない扉。犬と母。草原。磨かれた廊下。スペイン。姉妹。バックからこぼれる小物。老母。草原のなかの家。