黒木和雄『祭りの準備』(1975)

(117分・35mm・カラー)昭和30年代の高知県中村を舞台に、猥雑な隣人たちに囲まれて暮らす青年が、すべてのしがらみを断ち切って上京するまでを描く。中島丈博の自伝的なシナリオに、青春映画に秀でた藤田敏八監督も関心を持ったため、どちらが映画化するかで会合も持たれたという。ラストの万歳三唱のシーンも忘れがたい、1970年代青春映画の名作である。
’75(綜映社=映画同人社=日本アートシアターギルド)(原)(脚)中島丈博(撮)鈴木達夫(美)木村威夫、丸山裕司(音)松村禎三(出)江藤潤竹下景子、桂木梨江、杉本美樹馬渕晴子、浜村純、犬塚弘、三戸部スエ、原知佐子絵沢萠子真山知子石山雄大、湯沢勉、阿藤海、斎藤真、瀬畑佳代子、夏海千佳子、森本レオ芹明香

秀作。佐藤忠男によると、この映画は「文化人VS野蛮人」の図式を基調としながら「野蛮人」として生きる人々の見事さを描いている、ということなのだそうだ。したがって、「文化人」の側の主人公(江藤潤)やその恋人(竹下景子)は割りを食っている、と評価されている。
しかし私は佐藤説は取らない。この映画は、性関係の濃密な狭苦しい村落と都会的・文化的なものとの間で引き裂かれるアンビバレントな若者の感情がテーマである。アンビバレントゆえの青春映画なのである。
両親や祖父の乱脈な性関係をシナリオライターを目指す江藤潤は嫌悪しているが、しかし彼らは堂々と見事に生きている。江藤の恋人の竹下景子は都会的で共産主義の勉強会に参加しているが、しかしいったん或る青年に身体を許すと非常に情緒的な関係性を江藤に求めるようになる。両義的(アンビバレント)な人々がそこにはいる。
他方、泥棒の原田芳雄は共同体の外れ者であり、その生き方は実に自由である。しかし自由が反社会的な振る舞いを通じて実現されるため、村からの距離の取り方に不器用さが残ってしまう。最終的に村にも居られなくなってしまうというこの不器用さは、原田における不自由を意味している(両義性!)。
では、村から本当に自由になるにはどのようにしたら良いのか。東京に出ることを決意する江藤と原田が別れを告げるラストシーン。このシーンが感動的なのは、自由を求める者同士の共感がそこにあるからだけではなく、それを過去のものとして見なす未来の江藤の視点(脚本家として本作品を描いているメタな視点)が、村の人々の生き方を限りなく肯定する側に立っているからだろう。未来の時点から村の人々の生を肯定することによって、主人公は生まれ育った村を承認し、自由を獲得する。共感的な視点が、悲惨で不快な出来事も多い村での生活に貫いているのは、そのためだ。
…とまあ理屈はともかく、竹下景子の脱ぎっぷり*1の良さを確認するだけでも見る価値は十分あり。1950年代後半における地方の性の現実も、リアルに描かれているのではないだろうか、と感じた。おすすめ。

*1:オルグに来た共産党系の男に騙されて、地方の中途半端な才女がヤラレてしまう、というのは、なかなかエロい設定だ。それが竹下景子というのもリアルだし。