地元の生活

午前中から地元で地味に行動しつつ、英語文献を読んでいた。専門分野に関しては日本語と同じように英語を読めればと思うが、今日のようにテンションが低い日は、思うようにいかない。実力不足を呪いながらも、一応、区切りまでは読み終えた。疲れた。
ところで『UP』五月号に、松浦寿輝「かつて授業は「体験」であった」というエッセイがあって、けっこう面白い。井上忠のギリシア哲学の授業について書かれている。ちょっとだけ引用。

わたしたちが唖然としていたのは、朗々と響く声に乗って途切れることなく雄弁に続く井上先生の言葉の奔流を、まったくとは言わないが、せいぜいのところほんの一割か二割ほどしか理解できなかったからである。……/何かとても大事な事柄が、他の誰にもできないような仕方で語られていることだけはわかる。この人の発する言葉の一つ一つの背後に、恐ろしいほどの知的労力と時間の蓄積が潜んでおり、膨大な文化的記憶の層が畳みこまれていることもわかる。だが、哀しい哉、無知と無学のゆえに、わたしにはその内容を具体的に理解することができない。彼がパルメニデスについて、ヘラクレイトスについて、アリストテレスについて語っていることを本当に理解するには、結局、本を読まなければならないのだ。沢山の、沢山の、沢山の本を読まねばならず、その道には終りというものがない。わたしはそのことだけは戦慄的(原文、傍点)に理解した。井上先生の講義から、何らかの知識なり情報なりを受け取ったわけではない。彼の講義は単に、或る決定的な「体験」だった。……(44)

誰もが薄々感づいていることだと思うが、畏怖も尊敬も、現在の大学からは消えてしまった。教養とは何か、教養教育はいかにあるべきかなどという議論が何度も何度も蒸し返されているが、わたしに言わせれば話は簡単だ。この畏怖、この尊敬、それが教養なのである。自分にとうてい理解できないことが世の中に存在するということ、労力を傾け時間を費やせばそれに或る程度は接近できるということ、しかし「何か?」と問いつづけるその道には果てしがなく、だから人間精神の栄光としての学問を前にして人は謙虚にこうべを垂れなければならないこと――それらを知ることこそ、教養にほかならない。(46)

でもこれだと、学者以外に「教養」は獲得できないってことになっちゃうな。それで良いのかな?…という疑問はともかくとして、これで私は蓮實の「齟齬の誘惑」を思い出した。「畏怖」は感じなかったけど。
買ったばかりの「sunstar DO」があまりにひどい磨き心地なので「DENTER SYSTEMA」に変えてみたら、大変良好な具合でうれしい。
今月は映画を36本観た。36本+65本=101本。