今村昌平『人間蒸発』(1967)

(129分・35mm・白黒)失踪した婚約者の行方を追って、相手の女性とともに今村が至るところを訪れ取材するという設定。捜査が進むにつれて失踪者の隠された事実が明るみになり、女は精神的に激しく混乱する。今村たちのねばり強い探究精神は作品の迫力を支え、後の今村のテレビ用ドキュメンタリーでも生かされている。
’67(今村プロ=日本アートシアターギルド=日本映画新社)(撮)石黒健治(美)黛敏郎(出)露口茂、早川佳江

フィルムセンター。佐藤忠男黒木和雄とその時代』にも説明があるように、この作品はATG方式による初の作品(1000万円という低予算をATGと撮影者で折半する方式)。徹底的に盗み撮りを敢行し、迫真の映像を捉えた、と書いてあった(めんどうなので引用しないけど)。
失踪者をめぐる語りから見えてくるのは、プレ・モダンからモダンへの移行期を生きる人々の思考様式、感情の様式だ。それが「フィクションとは何か」「リアルとは何か」というポストモダンな問いの形式に収められていることも不思議といえば不思議である。一見すると慎ましやかな人間(この作品ではとくに女性)の内部に濃厚な情念が渦巻いており、それが噴出していくさま(要するに修羅場)を見ていると、前近代の束縛から逃れた個人主義が実は表面的なものでしかなく、都会にあっても様々な事情で他人との依存を余儀なくされていた人々の「生活戦略」のようなものが窺い知れて、興味深い。生真面目で怒ると怖い早川佳江と、人が良いようでだらしないようでもある佳江のお姉さんの芝居は本当にリアル。あれは演技なのか?と真剣に悩んだ。若き日の今村昌平監督の姿も見られてうれしかった。