ダヴィデ・フェラーリオ『トリノ、24時からの恋人たち Dopo Mezzanotte』(2004)

フィルムセンター。イタリア映画。『真夜中を過ぎて』。

監督: ダヴィデ・フェラーリオ 国 : イタリア 2004 / 92 分
寡黙な映画青年マルティーノはトリノ映画博物館の夜警。アマンダは車泥棒の恋人で、博物館近くのハンバーガーショップの店員。ある夜、警察に追われるアマンダは映画博物館に逃げ込む。マルティーノは彼女を匿い、自分が撮影した映画を見せる。そこにはアマンダが写っていた。予期せぬ愛の告白に彼女の心は揺れ動く。彼女は恋人とマルティーノのどちらも選ばないことを選び、微妙な三角関係が始まった。
※『真夜中を過ぎて』は「イタリア映画際 2005」での上映時に付された日本語題ですが、その後『トリノ、24時からの恋人たち』の題名で劇場公開されております。

この映画は「映画論」だ。作中、「映画なんてのは、人が見せたいと思う現実を切り取っているだけで、それは現実そのものではないのさ」と、主人公の映画青年に説教をする人物が出てくる。この見解に対して、本作を通じ、ひとつの回答が示されている。
映画の世界にどっぷり浸っている映画青年、現実以外に興味のない色男、その二人と恋人関係におかれる女性、の3人が出てくる。物語は、色男と女性の恋人関係に、映画青年が三角関係として割り込むかたちで進んでいく。
映画青年にとって、憧れの女性との恋愛は、最初は映画のように、さらには映画を越えて、展開していく。映画は現実によって裏切られ、現実は映画を乗り越えていくのである。だが他方、平坦かつ揺るぎない色男の現実は、映画青年の夢想世界(=映画の世界)によって、意表をつくかたちで揺るがされる。ここでは現実に映画が入り込み、映画が現実を先取りしてしまうのである。
「映画とはいったい何であるか?」という問いに、本作が用意している回答は、映画こそ現実であり、現実こそ映画なのだ、といったものだ。人生の現実へと向き合う姿勢は、映画に向き合う姿勢とまったく変わらない。与えられた現実から出発し、その現実を超えていこうとするドンキホーテ的試みが人生であるならば、「人が見せたいと思う現実でしかないもの」のなかに、思いもよらないイメージを予感させる映画もまた、人生と同型の構造を有するものだ。印象深いラストシーンは、そのことを十分に示唆しえている(映画博物館という集蔵庫空間に拡散していく人骨の粉末)。