読書系ブログの宿命について

ところで昨日電車の中で、わりと高尚な時事ネタと趣味のクラシックネタを話している人がいたのだが、よく見てみると、その人は独りでじゃべっていたのだった。
変な人だと思ったけど、よく考えると、ブロガーも同じだなと。
そもそも読書ブログは、読書を通じたコミュニケーションだが、読書というのは、孤独的要素と共同的要素とのバランスが難しい行為である。本を読むというのは個人的行為であるが、それは他者との共同性へと向けられたものであり、17世紀のヨーロッパではコーヒーハウスで公衆が成立することで、そのバランスが両立しえていた経緯がある。
しかしこれは特殊西洋的な事情に他ならない。開放性を前提とした「公衆」とは異なり、「教養」が閉じられた身分文化であった非西洋社会では、本を読むことがすなわち、大衆からの乖離を意味した*1
つまり、本を読んでも、コミュニケーションが接続しない。
だから、電車のおじさんやブロガーに見られるある種の孤独は、非西欧型近代において必然的な現象だと考えられる。
というわけで、気が向いたら積極的にコメントをお願いします、という結論かな?

*1:「転向」もこれで斬れますね。公民形成とワンセットになった知識の(政治的)実用性が、非西洋社会では装飾にすぎないものとなってしまう。マルクス主義を受容した昭和教養主義が、じつは実践性への強迫観念というかたちで裏腹に「身分文化」的機能を果たしていた、というハナシも、そういえばありました。