ショーペンハウアー

静かに読書三昧。ここ数日、社交に精を出していて、余りハードに勉強をしていなかったので、脳味噌の働きが快調だった。
ところで、先日、HiroumixとオタクのO君がマンガを企画している話を聞かされたのだが、仏教的世界観と中世ヨーロッパを何とか融合できないか、とのことだった。仏教とヨーロッパをつなげるには、ニーチェでもいいし、ショーペンハウアーなども使えるのではないか?今日読んでいた本から孫引きしておくと、次のようになる。

ヘーゲル一派は歴史哲学を全哲学の主目的とすら見なそうとするのだが、彼らに対しては、哲学の対象は不変恒常のものであって、あれこれと推移するものではない、と飽くことなく繰り返したプラトンに目を向けよといいきかせる必要がある。世界の過程を、あるいはヘーゲル一派の言葉でいえば歴史を、かくのごとくに構成するものはみな、いつの時代にも同一物が存在するのであって生成・生起は見かけにすぎず、イデアのみが恒常的であり時間は観念にある、との全哲学の主要な真理を把握しなかったものである。これはプラトンが主張しカントが主張したことである。・・・

ショーペンハウアーはカントの物自体という境界設定を受け入れつつも、われわれ自身が他ならぬ物自体であるがゆえに、その内奥により根源的な働きとしての「意思」を見出しうると考える。「意思」は主観に内在する先験的カテゴリーを超え出るから、これはプラトンのいう「イデア」の領域と対比可能である。世界理解の中核に「時間」という条件を据えるヘーゲルの図式は、この意味で間違っている、という話。

・・・つまり前記の歴史哲学者とその讃美者たちは素朴な実在論者、加えて楽天主義者・幸福主義者、したがって陳腐なる輩、腹の底からの俗物であり、しかもその上まことに質の悪いキリスト教徒である。キリスト教ならびにバラモン教および仏教の真の精神と核心は現世の幸福の空無なるを認識し、それを完全に蔑視して、まったく別種・反対の存在へと改心させるにある。あえていうがこれこそキリスト教の精神と目的であり、『事の真の消息』であって、連中のいうように一神観がそれなのではない。したがって無神論的な仏教こそ楽天的なユダヤ教やその変種たるイスラム教に比してはるかにキリスト教に近いのである。(『意思と表象としての世界』)

本質的なのは「一神教」とか「多神教」とか、そういうことではない。時間も空間も超えた空無なるものとしてのイデアこそが重要だ、それこそが真の宗教だ、という話。
加えてニーチェには、デュオニソス=インド、アポロン=ローマ、両者の中間=ギリシャ、という世界理解があるのだそうで、ここらへんを下敷きに作品世界を構築することもできるのではないか。戦士層を鼓舞するにはデュオニソス的狂酔乱舞が不可欠だが、それが行き過ぎると脱世俗化してしまい(インド・仏教)、逆にそれが完全に世俗化してしまうとアポロンになってしまう(ローマ)。これに対して、政治的市民の水準で両者の統合が果たされていたギリシャは素晴らしい。この図式はけっこうマンガ的なのでは?ニーチェにかかると、仏教の位置づけが若干低くなってしまうが。
fortuna(運命)を制御するvirtu(力量)を賛美するマキアヴェッリ的世界観を類比することも出来るが、しかしこれだと『チェーザレ』と同じになってしまうわな。日本の仏教者だと、ショーペンハウアー的な位置に似ている人って、誰になるんだろう?「空」を脱俗的観念としてではなく、ポジティヴに捉える人。日蓮か?