徳富蘇峰

『市場・道徳・秩序』の続き。第2章「青年期徳富蘇峰における道徳と経済」。
福沢諭吉西周ら明治啓蒙主義にみられた市場社会への肯定的評価に反して、明治10年代は元田永孚らによる復古的道徳主義が隆盛し、道徳をめぐる論議が紛糾した。徳富蘇峰儒教的な「命令の道徳」は自由と自律を損なうとして、復古主義者を「天保の老人」として批判した。
その意味で徳富は福沢に近い立場にあったのだが、しかし微妙な点において彼の思想には福沢とは異質な要素が含まれていた。福沢の功利主義とは異なり、徳富は幼少期以来のキリスト教からの影響もあって西欧文明の「物質的ノ文明」の背後をなす「精神的ノ文明」に着目していたのである。明治以来の道徳的紊乱は徳富においても問題状況として映っており、功利主義がもたらした目標のアノミーは克服されるべきものと診断されていた。
こうして徳富の思想は、「自愛主義」と「他愛主義」の両立という課題を抱えることになった(「平民的道徳」の確立)。しかし「利ノ世界」を追求する「自愛」は、「家族愛」「ナショナリズム」「隣人愛」などの「他愛」とは容易には両立するものではなかった。明治20年代半ばまで徳富はスペンサー流の<「軍事型社会」から「産業型社会」>図式に依拠していたが、二つの原理の平和的統一という図式は、政治状況からしてそのまま維持されるものではありえなかった。
こうして次第に徳富はナショナリズムを信奉するようになり、愛国主義による「自律」の道を探りはじめる。もちろんそのような思想的転換は「隣人愛」を可能にするものではあっても、元田の思想へと限りなく接近していく契機を孕むものに他ならなかった。福沢における骨太な思想的一貫性は、徳富には見出すことが出来ない。
というわけで、徳富は福沢と比較して、「二流だな」という感じが拭えない。<「自愛」と「他愛」の両立>という難問について、坂本は徳富に対し同情的なのだが、私自身は、スペンサーを内在的に乗り越えられなかった徳富の思想的不徹底をやはり看過することができない。安易に過ぎると感じる。