福沢諭吉

坂本多加雄『市場・道徳・秩序』のえらく長い序文、第一章(福沢諭吉)を読んだが、明らかに名著。「自然」と「作為」を対立させる丸山眞男の思想史図式を転換させ、デカルト的な「構成的合理主義」とは異なる社会的実体としての「市場社会」に着目する。市場社会はそれ自体、作為の枠内に収まらない独自の実在性を備えているのである。civic humanismの研究潮流を念頭に置きつつ、「スコットランド啓蒙」の視角が取り込まれている。
福沢諭吉を扱った第一章(「独立」と「情愛」)がすばらしい出来。貸し借りなしの独立自存を説いた福沢は、情誼的関係を家族の範域にのみ認め、社会の構成原理にまでそれを拡張することは決してなかった。これはアダム・スミスの政治社会観とも類似する。ここには福沢なりの自由観・人間観が反映されるとともに、情誼的関係が帰結する権力のインバランスへの警戒が存在していた。さらに千変万化する「多忙」な市場社会を前提とした場合、人間が獲得すべき知識の形態はどうあるべきかという「学問論」もきわめて興味深い。武士層による閑暇的な知識は古典的ではあっても役に立たず、動的な「新結合」を生み出しうる知識こそが重要になるのだと説かれる(実学思想+プラグマティズムシュンペーター)。
学問のすすめ」における福沢のメリトクラシー至上主義が、明治初期のプラス・サム・ゲーム社会を前提とするもので、明治20年代以降はその論調に変化が生じたという指摘も興味深いが、次の文章にあらわれる福沢の人生観が、感動的なまでに爽快である。

人生は見る影もなき蛆虫に等しく、朝の露の乾く間もなき五十年か七十年の間を戯れて過ぎ逝くまでのことなれば、我一身を始め万事万物を軽く視て熱心に過ぐることある可らず」(六−二二五)(74)

「すべて軽く考えて、あんまり熱心が過ぎるのは良くない」という解釈が正しいと思われるが、要するに、一切の拘泥から自由となるべく「惑溺」を避け、「活撥」な精神でいなければならない、ということである。「自分は蛆虫だ」くらいに思っているのがちょうどいい、ということだ。