増村保造『卍』(1964)

(90分・35mm・カラー)弁護士の妻が、同じ絵画学校に通う女性に魅了されるまま同性愛に深入りし、夫なども巻き込んだ四角関係に突き進んでゆく。若尾文子から発散される妖艶さを正面から受け止めた岸田今日子の演技も絶品である。小林節雄は市川・増村作品などを支えた大映東京撮影所の名キャメラマンである。
’64(大映東京)(撮)小林節雄(出)岸田今日子(姉内園子)(監)増村保造(原)谷崎潤一郎(脚)新藤兼人(美)下河原友雄(音)山内正(出)若尾文子船越英二川津祐介山茶花究、三津田健、早川雄三、村田芙実子、響令子、南雲鏡子、富田邦子

増村保造の作品は『からっ風野郎』という三島由紀夫の出てくる作品を観たことがあるが、あれも変チクリンだったけど、この作品もかなり変だと感じた。次の文章を読んでいるかぎりでは、そんな雰囲気はまったく感じられないが。

六〇年代の大映を代表する監督を一人選ぶとすれば、その栄光は増村保造のうえに降りてくることだろう。ローマの映画実験センターに学んだ増村は、帰国すると、これまでの日本映画は情緒的で調和的で、諦めを旨としていると、仮借ない批判を展開した。……一九五七年に『くちづけ』で監督デヴュウした増村は、日本の女性をイタリア映画のそれのように、自立した欲望の主体として描くことに情熱を注いだ。『妻は告白する』(一九六一)、『卍』(一九六四)、『清作の妻』(一九六五)といった、若尾文子主演のフィルムにおいて増村はディートリッヒを前にしたフォン・スタンバーグのように野心的かつダイナミックであり、その演出には瑞々しい官能性が溢れている。……増村は鏡花は軟弱であると退け、谷崎潤一郎の世界を映画において再現しようと試みた。(四方田犬彦『日本映画100年』:166−167)

書き写していて痛感するが、「増村はディートリッヒを前にしたフォン・スタンバーグのように野心的かつダイナミックであり、その演出には瑞々しい官能性が溢れている」というのは、明らかに大袈裟。フォン・スタンバーグはもっと痛切な映画だったぞ、と言いたくなるのは、この映画に出てくる女性が「自立した欲望の主体」ではなくて、「欲望に流される情緒性」にどっぷりだからだ。日本性を脱却できていないどころか、あまりにも日本的すぎて、そういう意味では大失敗作かもしれない。
とはいえ、レズ、三角関係、騙し合いなど、反社会的な行動がオンパレードで、そういうもののなかに渦巻かれていく関西人たちを見るのは、けっこう面白かった。岸田今日子も頑張っていたが、若尾文子は何をやらせても上手いな、とやっぱり思った(ちなみに岸田今日子の関西弁は、岸田今日子弁だと思う)。