大島渚『絞死刑』(1968)

(118分・35mm・白黒)在日コリアンである死刑囚の刑の執行が失敗、そこから次々と滑稽な事態が展開してゆく大島渚の代表作の一つ。佐々木守らの筆になる痛烈なユーモアを渡辺文雄ら大島組の常連俳優たちが見事に具現化し、創造社のもっとも創造的な時代を代表する作品となった。
’68(創造社=日本アート・シアター・ギルド)(脚)佐々木守(出)渡辺文雄(教育部長)(監)(脚)大島渚(脚)田村孟、深尾道典(撮)吉岡康弘(美)戸田重昌(音)林光(出)尹隆道、佐藤慶小山明子戸浦六宏石堂淑朗足立正生松田政男、上野堯、小松方正、薄井孝雄、寺島アキ子、桜井啓子

大島渚ってやっぱり駄目だなと思った。観念的すぎてほとんど自慰行為みたいなものだ。しかし時代状況を考えないと公平性を欠くかもしれない。逆に、これだけ脇目も振らず自慰行為に耽られると、見事なものだとも思えてくる。
在日韓国人アイデンティティーの多重性と、国家に包摂されない個人の実存の多重性が重ねあわされ、国家からの自由、死刑への疑問が語られる。しかし脚本的には整合性が取れておらず、評価できるのはパッションのみである。だが、こういうタイプのユートピア意識は、ドイツ農民戦争に始まる至福千年説以来の定型をなすものだ。こういう尖鋭な現在性・直接性の称揚は、当時の時代状況が許容したものなのだろう。
というわけで、今の時代状況からすると「古い」「観念的」としか思えない。したがって「時代を超える作品」とは到底いえない。しかし「時代を感じさせる作品」ということはいえるのかもしれない。だが私は当然評価しない。