『丸山眞男回顧談』

丸山眞男回顧談』の上巻を半ば過ぎまで、面白いねぇと溜息をつきながら読み進めている。大正デモクラシーの爛熟した文化を旺盛に摂取していた、若き丸山の姿が興味深い。映画へののめり込み方は尋常ではなく、映画や演劇から時代の変化を敏感に感じ取っている姿がうかがえる。19歳のときに唯物論研究会に出席して(1933年)、本富士警察署に取り調べを受けた精神史的意味も大きなものだ。たんなる秀才で終わらなかったのは、知識の一面における脆さを、このとき思い知ったからだろう。
東大での教授評も面白いが、1936年・1937年における日本の知的状況の変質の指摘には、ずいぶんと考えさせられた。それ以前からも蓑田胸喜・原理日本社などの攻撃があったわけだが、丸山の実感からすれば、知識界の動揺が内在的にもたらされたのは昭和11年頃ということになる。ファシズムが国際的に勃興し、世界新秩序を謳ったとき、ブルジョワ自由主義を否定する左翼は、新秩序への微妙な態度決定を迫られるに至った。「国家主義VS左翼」という対立図式が「ファシズムVS反ファシズム」という図式に組み換えられ、そこに勢力地図の塗り替えが生じたわけだ。1939年、独ソ不可侵条約が締結されるにおよんで、この問題をめぐる緊張は「ドラマティックに高ま」ったという(192)。丸山は反ファシズムの態度をとることになったが、中間層を重視するナチの社会主義的側面に、大塚久雄の生産力理論が微妙な評価をあたえることになったとの分析も面白かった。
ただし、思っていたよりも複雑だな、と思わされたのは、丸山のマルクス主義にたいする立場性である。東北に勉強合宿にいった際の知見などから判断して、講座派にコミットした事実は述べられているが、その位置取りは私はまだ明瞭に読み取れずにいる。他方、南原繁の新カント派の立場や自然法への注目など、規範的な立場性の必要についても強調されているが、それらを考えても、丸山の実像というのは意外と迫りがたいように感じている。
いずれにせよ、読みかけなので、中間考察にとどまるわけだが。

丸山眞男回顧談〈上〉

丸山眞男回顧談〈上〉