無目的読書。

この著者は好き。「〈自分〉の唯一性」をめぐるライプニッツ思想の紹介。1500年に描かれたデューラーの自画像が導入となっているのも素敵だが、谷川俊太郎の「二十億光年の孤独」が「モナドの孤立性」のイメージとして語られているのを読んで、「ああ、これはカイジじゃん」とわたしは思った。
落ちれば死ぬ橋の上で、カイジは絶対的な孤独を味わう。友は助けにならない。死を前にして人は孤独、相互理解など不可能。だが次の瞬間、カイジは一転、「理解はできない、でも通信はできるのだ」と気づく。
これは「窓がないモナド」が、それでも「事物相互の結合」としての「絆」を持つ、とするライプニッツの思想に近似する。モナドは内側に襞を織り込んで、宇宙の渾然たる無限性を含みこむ。そのことで「実在的交通」を実現している。このライプニッツの考えはまったく謎めいたものではあるけれど、わたしにはなかなか面白く感じられる。「ヨーロッパで妻が死んだインドの夫はやもめとしての実在的変化を被る」という訳の分からない命題も面白い。
帰りの電車で吉田健一『ヨオロッパの世紀』(岩波文庫)を斜め読みしていたら、古代の人間は自分を疑っていないが、18世紀に完成されたヨオロッパでは不安を伴った自己意識が芽生えたのだ、と書いてあって、デューラーの連想と結びついた。
日本の個人主義 (ちくま新書)

日本の個人主義 (ちくま新書)

やや期待外れ。大塚久雄の思想を紹介して、戦後啓蒙の「自律」概念を再検証する試み。自律と他者啓蒙とのジレンマという問題設定は、ありきたりで面白くない。「ポスト近代は終わった。やっぱり主体は大切だ」という議論が、脳科学を参照しつつなされるのもあやしすぎる。また農村社会と都市社会のギャップを基礎としていた戦後啓蒙の在り方が、今日的な社会構造の変化に照らして相対化されていないのも、「インテリベースの自律論を振り返ったって観念的になるだけだよな」と思わされる原因の一つ。131ページの「一般原則」の主張なんて何の意味があるのか分からない。