相米慎二『台風クラブ』(1985)

公開:1985年 監督:相米慎二 主演:三上祐一、紅林茂、松永敏行、工藤夕貴大西結花、会沢朋子、天童龍子、渕崎ゆり子寺田農佐藤允
台風が接近しつつあったある地方都市の中学校。少年少女たちはそれぞれ鬱屈した日々を送っていた。そんな彼らが一夜だけ学校に幽閉されてしまう。「暗闇でDANCE」に合わせ夜のプールで踊る少女たち、シャッターの閉まった商店街を駆け抜ける野球部員の姿を長回しで捉えたオープニングに早くも胸騒ぎを禁じえない。台風がやってきて過ぎ去るまでに少年少女たちの感情が高ぶり、沸点に達する瞬間を見事に描いた青春映画の傑作。

相米慎二ロリコン映画は変態すぎて大好きだ。ただし『跳んだカップル』『セーラー服と機関銃』『ションベン・ライダー』『ラブホテル』と比べると、この作品はかなりシュールで哲学的な作風だといえる。
台風がどんどん激しくなるという設定は魅力的であるが、この作品では「青春」という相米映画のテーマ性が、かなり突き放されたかたちで追求されている。客観的であり評価的であり分析的である。それは登場する少年少女の内面性が余り描かれないことでもわかる。「青春を通過する内面の成長」といった物語的描写は拒否されている。
「ただいま・おかえりなさい」と繰り返す暴力少年、「台風来ないかな」とつぶやく工藤夕貴(布団の中で悶えたり、顔に奇妙な赤い線が描かれたりもする)、暇な時間をレズ行為でつぶす女子中学生、内面性に閉じこもる野球少年。かれらは奇妙な鬱屈を少しずつ抱えながらも、作品の進行において突き放されて並置されている。外面的な視線によって並置された中学生たちは、台風という異常気象の只中で、共同的な高揚を体験する*1。一人東京にいる工藤夕貴も、信州の仲間たちとどこか繋がっているようだ。
その高揚(踊り)は、各人の内面に蓄積された暴力的エネルギーが、表出される際の一形式である。暴力性は、形式が与えられることによって馴化される。象徴的には、死が、生への投企の形で、実存を形式へと沿わせる。その中途のプロセスが「青春」に他ならない。
だから彼らはいわば死を共同体験したのである(冒頭のプールの少年が仮死状態になることでそれは予告されている)。だが、その体験の意味を了解し自覚したために一人の野球少年は自死を選ぶに至る。死が象徴にとどまるとはかぎらない、その破綻と痛み。これもまた青春の一部である。
「あんたたちが混乱するのは、<死の生への先行性>を知らないからだ。だから僕が教えてやるんだ」と少年は宣言して死に、一面浸水した学校を見た工藤夕貴は、「わぁ、きれい、金閣寺みたい」という。(少年の破綻としての死が、それでも彼の意図どおり、その後の工藤夕貴の実存の形式を定めるのに成功したとここで予感される)。これはアメリカニズムに浸る戦後日本人を批判し、実存の核を、日本=天皇に求めた三島由紀夫自死を連想させる*2
工藤夕貴大西結花が良かった。

*1:少年少女の名状しがたい鬱屈のありようは「実存の形式化」が不全であることと関連している。彼らの内面性は「物語的描写」の対象ではありえない。物語化するには余りに形式性を欠いているからだ。だから彼らに特有な内面性の有り様を捉えるには、外的で突発的な出来事との関連を考慮に入れなければならない。この作品の場合だと「台風」だ。『ションベン・ライダー』だと「デブ長の拉致」だし、『セーラー服』だと「やくざの生と死」だ。そして彼らの形式化されない内面性は、突発的で予測不能であるがゆえに、外面から俯瞰した長まわしを要求するようなところがある。

*2:この点は「青春」という自我の宙づり状態を批判し、モラトリアム状況からの決別を宣言した相米のメッセージとも受け止められるが、そうだとすれば、それはちょっと中途半端だったかな。私の思い過ごしかもしれないが。