おすすめ本とすこし不満本

池田勇人の首相秘書官を務め、宏池会の精神を継承すべく大平正芳の補佐役を果たした、伊藤昌哉の『自民党戦後史』(上・中・下、朝日文庫)を古本屋で購入。315円。大平が盟友と信頼した田中角栄が、佐藤栄作の政治力の圏域を脱し、ロッキードで失脚した後も絶大な権力を振い続けた内情は震撼すべき内容である。昭和四十七年七月五日の総裁選、佐藤の思惑を受けた福田、盟約の経緯のある大平を抑え、田中は第一回選で第一位の得票数を獲得する。「田中は、ある難儀を通過する際、自分でもわけのわからないような状態になる。このときすさまじいまでのエネルギーが彼を通して現れる。/常識人から見れば狂人すれすれの心境だ。権力を追う異常なある種の生命力が、憑かれた田中の肉体を通して、声ともつかぬ息となってこの公選の議場にチラリと現れたとみていい」(53)。
他方、大嶽(2007)の理論枠組にはやはり問題を感じた。「(ブントは)学生運動新左翼運動の輝かしい伝統として一九六〇年代末の全共闘運動の中に蘇り、やがてポストモダンの誕生を促すこととなった」、「要約的に言えば、ブントは、(1)反権威主義、(2)享楽性、(3)日本資本主義の復活と近代化の認識、(4)労働者至上主義の否定、の四つの局面において、ポストモダンを準備した、ということができる」(131)などと述べられている。
どこがおかしいかと言えば、「学生運動」という共通性に目を奪われて、60年安保と全共闘運動の根本的相違が不当に無視されている点である。そもそも60年安保における全学連主流派の意味を大きく見積もり過ぎている。60年安保は社共・総評・近代的知識人らを巻き込んだナショナルな政治運動であり、全学連主流派はそうした大状況の中に位置を占めていた。青木昌彦の国家独占資本主義理論に見られるように、社会主義への淡い期待と反戦意識のなかで「大きな物語」は生きていたのである。第一、アイデンティティーが不安定な学生なのだから、そこだけ取り出してみれば「ポストモダン」に近い要素はいくらでも観察できるのは当たり前。それを過剰に一般化するのは考えものである。