川上末映子『乳と卵』

大阪弁の語り口とともに哲学チックなところが割と面白かった。
例えば、「『子どもが出来るのは突き詰めて考えれば誰のせいでもない、誰の仕業でもないことである。子どもは、いや、この場合は、緑子は、というべきだろう、本質的にいえば緑子の誕生が、発生が、誰かの意図および作為であるわけがないのだし、孕むということは人為ではないよ』」というのは永井均っぽいし、「あたしの手は動く、足も動く、動かしかたなんかわかってないのに、色々なところが動かせることは不思議。」はメルロ・ポンティっぽいし、「<じゃ、言葉のなかには、言葉でせつめいできひんものは、ないの>」というのはヴィトゲンシュタインの哲学っぽい。こうした記述が面白かった。
で、他ならぬ私としての私、この私、って何?というのが通底する問いなわけだが、具体的なリアリティーに落とし込みつつ、なかなか上手く描かれていた。最後は畳みかける感じで、わりとドキドキした。心と身体の不一致感の描写もリアルで、生理がやって来た気分になった(来るわけないが)。
ただぼくの意見では、永井均とかヴィトゲンシュタインとかの哲学は、単なる錯覚にすぎない。「<「他ならぬこの自分」が自分だ>と自分が考える」というのは、「<クレタ人は嘘つきだ>とクレタ人が言う」というのと同じで、内部にパラドックスを抱える。このパラドックスから生じるのが上記の錯覚であり、パラドックスを含んだ問いの形式を観察すれば、「ああ、これは行き止まりだよな、この私、とか言ったって、パラドックスが生み出した錯覚にすぎないよな」とすぐ分かる。なので、そこにあんまりこだわっていたってバカみたいだよ、それは近代の意識哲学が相対化できていないだけだよ、と思わざるをえない。
ただ思春期で「自我」が意識されると同時に色んな混乱が押し寄せてくる場合にはそうしたリアリティーがリアルでありえるので、その意味では、川上作品はなかなかやはり面白い小説である。冗長な叙述の完成度も高い。

乳と卵

乳と卵