18世紀のなぞ

宇都宮先生『カントの啓蒙精神』(岩波書店)を第二章まで読了。大いに啓蒙される。「カントってどうもイメージしていたのと違うなぁ」と最近ずっと引っかかっていたが*1、こういう整理もあるのかと驚いた。
問題はヘーゲル哲学史にある。「カントの哲学は、たしかに「客観的独断論としての悟性形而上学を終息させた」が、しかしその内容をたんに「主観的独断論」へと置き移し、「有限な認識」を「固定した究極の立場」として、「それ自体において真なるものにむけての問いを放棄した」」(20)というのがヘーゲルによる位置づけ(観念論への道を開いたカント)。これをシュヴェーグラーも踏襲し、多大な影響が及んだ。しかし「真なるもの」へと到達する絶対精神の弁証法的プロセスを評価する限りにおいて、カントの超越的志向性が大きく見積もられ過ぎたのではないか、この点についてテキストに基づき検証を施すべきではないか、というのが本書の問題意識。
「誤謬は、悟性への、感性の気づかれない影響によってのみ生じる」(43)(=悟性のみでは誤謬は生じない)という形での整理が施されつつ(経験的仮象・超越論的仮象)、「自分で考える」ことを最重要に位置づける「知恵」の必要が語られる。これは本当に興味深い。

*1:たとえば「非社交的社交性」の概念などを考えるといわゆる「啓蒙精神」のイメージとは別の要素があるよな、という感じ。