名著なのに読む気が失せるまとめ

坂部恵『ヨーロッパ精神史入門 カロリング・ルネサンスの残光』(岩波書店)。超おすすめ。
14世紀、イスラム世界よりアリストテレスの文献がヨーロッパにもたらされ、アルベルトゥス・マグヌストマス・アクィナス、ガンのヘンリックス、ドゥンス・スコトゥスらスコラ哲学者がその思考を消化した。アリストテレスの知性概念における「能動知性」「受動知性」の二区分は、普遍者と個物の関係をめぐるスコラ哲学の思索を深化させた。アヴィケンナ(980−1037)の「共通本性」を受け、スコトゥスが「数的単一性よりも小さな実在的単一性」の概念を提出するなど、「無際限な述語規定をもち、汲み尽すことのできない個物」(59)という観念が定式化された。
しかし14世紀は西欧の思考秩序の変革期にあたり、オッカムが「能動知性」を形骸化する方向性を切り開いた一方、エックハルト否定神学的な神秘主義を成立させるなどの動向が見られた。「神学―哲学―自由学芸」に対応する「知性―理性―感覚」の図式は、オッカムらによって「知性」の領域が縮減されつつ、懐疑主義的・伝統破壊主義的傾向が展開することになった(76)。
1770−1820年頃、従来の「知性―理性―感覚」が「理性―知性(悟性)―感覚」へと図式的に転換する。これは「能動知性」を切り捨てるオッカム流の動向に従ったものであり、この転換を果たしたのがカントである。「カントが、ここで「神のintellecutus」といういわば上部構造を切り落し、(あるいは別あつかいにし)、人間の有限なintellectusに切り縮めたとき、「知性」は「悟性」となり、「知性」と「理性」の序列は逆転した」(139)のである。
しかし〈ratio(理性)のintellectus(知性)に対する優位〉(=「知性」の「悟性」化)が同時に「理性」の限界を告げる意味での啓蒙の終焉(合理主義の終焉)を意味したことには留意すべきである(140、88)。カントにおけるこの微妙な両義性は、intellectusの空白を埋める「構想力」の位置づけにも見て取れるし(146、超越論的機能としての生産的構想力)、批判哲学以前以後のカント哲学の変容にも見出しうるものといえる(137)。
他方、カントとは異なり、西欧の思想的水脈を正面から継承していたのがライプニッツであり、17世紀スペインのアナクロニズムを背景とする彼の思想は、ドゥンス・スコトゥスを摂取し「このもの性」を重視する独自の個体把握を含むものだった。「ライプニッツは千年単位の天才、カントは百年単位の天才」と言うべきである(96)。