サドと博物学と日記

坂部先生の『「ふれる」ことの哲学』のカント論を読み終える。「サドとカント」をめぐる章での、次の一節があまりにも深い。

人間理性の基本構造についてあれほどつきつめた抽象的思弁をよくしたカントが、他面でしつようなまでに感性界の身近な個々のことがらに執着と興味をもった、あるいはもたざるをえなかったということは、意味深いことのようにおもわれる。すこし突飛な比較かとおもわれるかもしれないが、わたしは、カントにとって自然地理学と人間学とは、たとえば、カフカドストエフスキーにとっての「日記」の役割を果たしているようにおもわれてならない。自己の理性と意識の統一とかたどりの喪失の不安になやむものは、身近のごく些細な個々のことがらに異常なまでの関心をよせ、そこに、かろうじて、理性ならざる「ロゴス」の分節と存在に根づくことのよすがとをえるということがあるのではなかろうか。ちなみに、ルソーもサドも、博物学を愛好し、そこに息抜きと救いを見出すという一面をもっていた。(236)

強調部分は、ボードレールなどもまさにそうだったと思われる。ちなみにサドの世界について、坂部先生は「純粋(肉)感性批判」との形容を与えている。

「純粋(肉)感性批判は、まさに感性が感性としての古典的なまとまったかたどりを失って、もはや感性ともいえぬ幻想の世界、死のかたりの散文として展開される幻想の世界にいきつくことを示す。通常の意味での「世界」の存在がまさに消え失せたところからはじまるこの徹底した「倒錯」の「反−世界」(contre-monde)にあっては、古典的感性にまとまったかたどりをあたえるべき最小限の「ラチオ」も「統覚」も失われ、したがって、「知覚」は「知覚」としてのまとまったかたどりを失う。(230−231)

「サドの死のかたりの、およそ陰影というもののないしらじらとしてあらわな幻想世界のあかるみ」(232)は、一切の規定を欠いた「(肉)感性」によって展開されている。同様に、一切の規定を超越する形式的法則(道徳法則)へと向かうカントの理性は、理性の不安に脅かされつつ、啓蒙の光をしらじらと世界に照射する。