『飢餓海峡』の補足

飢餓海峡』は「成り上がり者が貧乏時代の過去を抑圧する定型」に沿っていたわけだが、マサッチの本を読んで、この定型を支える生活感情のリアリティーに深く思いを致さなかった自分を恥じたよ。

こうした構成の反復が暗示しているのは、「六〇年代」の成功が、戦争期に対して、強い負い目や後ろめたさを感じている、ということではないだろうか。成功は、その時期に関連するある欺瞞を前提にしてもたらされている。「成功」は、海岸の「砂の器」のように脆い、というわけである。……(44)

さらに、付け加えておけば、これらのミステリーにおいて、犯罪は、1960年代の理想を構成する二つの焦点をめぐる矛盾に関連して生じている。第一に、犯罪は、たとえば「裏日本/表日本」といったような、「土地」についての矛盾を連想させる。第二に――より顕著なことだが――犯罪は、家族的な関係の挫折と関連している。すなわち、いずれのミステリーにおいても、来訪者=被害者は、犯人にとって、擬似的な家族とも見なすべき親密な他者なのである。……(45)

「理想の時代への疎外」は「家郷をめぐるコンプレックス」と表裏一体を成しており、上京してからの「まなざしの地獄」のなかで、そのコンプレックスは一層増幅されることになる。このコンプレックスの存在なしに、上述の「定型」は味わい尽せない*1

*1:マサッチが指摘するように、「理想の時代への/からの疎外」という、「二重の疎外」に見舞われた永山則夫の自意識に定位して、このことはより明確に理解することができる。