「なぜ、今、幼馴染なのか?」(笑)

現在、若者たちの間で人気の、恋愛物のアニメやゲームは、物語的な展開の豊かさを徐々に削ぎ落としつつ、きわめて高い比率で、一つの設定を共有している。恋愛する若い男女は、しばしば幼馴染なのである。……なぜ、今、幼馴染なのか?ここに投射されているのは、親子の関係よりも原初的で直接的だと感受されるような関係だからではないだろうか。……なぜか理由も分からず、生まれたときから近くに住み、仲良くしているという設定は、家族の関係にさらに先立って作用している、不可避の宿命の作用を、人に感じさせるものがないだろうか。(194)

他者性抜きの他者(=幼馴染)、直接的で原初的な、まったき<他者>への欲望。だが、この<他者>は両義的であり、不可能性に見舞われている。それは他者の体臭の両義性と同様のもの。

……臭いは、しばしば、他者を欲望させるほんとうの原因である。だが、他方では、その同じ対象が、<他者>を拒絶させる原因、<他者>を嫌悪させる原因ともなっている。つまり、一方では、われわれは<他者>へと魅かれ、<他者>を熱烈に欲望するが、他方では、われわれは<他者>に嫌悪を覚えており、それでもなお<他者>がわれわれに迫ってくるならば――<他者>がわれわれに迫ってくるならば――、それを侵襲的なものと感ずるだろう。<他者>には、このような根本的な両義性がある。(191)

「<不可能性>とは、<他者>のことではないか。人は、<他者>を求めている。と同時に、<他者>と関係することができず、<他者>を恐れてもいる。求められると同時に、忌避もされているこの<他者>こそ、<不可能性>の本態ではないだろうか」(192)。
家族以上に直接的に親密な<他者>への欲望。<他者>は要請されると同時に忌避されている。ブログへの欲望もそうした感覚に基づくものだし、他のさまざまな現象もこの図式で解釈できる。「Мの猟奇連続殺人」の例を示されると、納得してしまう部分がある。