万田邦敏『接吻』(2006)

1時間48分 出演 小池栄子豊川悦司仲村トオル
孤独なOL京子は、TVモニターに映った殺人者、坂口の笑い顔に心奪われ、裁判を傍聴しながら手紙をしたため坂口に接近していくが…。狂気にも似た、究極の想いの行方を描いた衝撃作!!

評判が良かったので、期待して見たのだが、案外普通だった。
社会的承認から見放された人間が、自身の尊厳を否定するがゆえに、他人の尊厳をも否定し、他者をまるで物体のように破壊する(殺害する)。このとき殺人者は脱社会的な存在である。
しかしこの殺人者は、他方で、自分が単なる物体ではないこと、人格的存在であることを確かめるために、他者を殺害している面がある。物体を壊すように人を殺すとき、それは人がやはり物ではないのだという確認行為、社会性を希求する行為であるとも見られる。
要するに、脱社会的な殺人者は、逆説的に、社会性を希求している。
このような殺人者の前に、一人の変わった女(小池栄子)が現れる。彼女は、殺人者の内面性に共感する。
女は「私だけがあなたのことを理解しているのだ」という風に「二人だけの共同体」を構築しようとする。この共同体は「社会の誰もあなたのことを理解していないが、私だけは…」という形で構築されており、その意味で「反社会的共同性(反社会的社会性)」である*1
この女の登場によって、脱社会的な殺人者は、自分が潜在的に社会性を希求していた事実に気づかされる。やはり人間はモノではなかったのだ、人格的存在だったのだという事実が、社会性の構築に成功したことで、明瞭に意識されてくる。
社会性に目覚めた殺人者は、そのことで自身の罪への良心の呵責に苦しむ。一方、女との関係性にも、微妙なズレが生じてくる。
なぜなら、殺人者が希求していたのは、徹底的であり、かつ普遍的でありうるような社会性だったからだ。「脱社会性」は「まったき社会性」の逆説的反転であり、したがって「反社会的社会性」では徹底を欠いているのである。
ラストのオチは、この「まったき社会性」と「反社会的社会性」との矛盾を示すものになっている。それは女の無意識的で狂乱的な行動のなかに示されている。
・・・というような映画だが、主題がちょっとヤヤコシすぎるよね。小池栄子豊川悦司の演技には凄みを感じた。

*1:女は「敵・味方」という語彙で二人の関係性を規定していた。だが「まったき社会性」は「敵・味方」では語れないんだよな。