「NHKスペシャル 四大文明 中国」

〜黄土が生んだ青銅の王国〜 近年の発掘調査の急速な進展によって、我々の想像を超えた「古代中国」の姿が浮かび上がりつつある。中国に文明が生まれた頃、黄土の大地は一面緑の森で覆われていた。その森はなぜ消えたのか。世界の古代文明の中でも最高水準にある「青銅器」は粒子の細かい黄土なくしては存在し得なかった。青銅器で神々をまつり、青銅の武器で武装した古代中国の殷王朝はまさに「青銅の王国」であった。黄土によって築かれた城壁に護られ、黄土の糧で育まれた古代中国。やがて秦の始皇帝によって統一されるまでを知られざる黄土と青銅の物語で綴っていく。

  • 黄土高原に人が住み始めたのは、およそ1万年前。黄土は水さえあれば肥沃。
  • 関中平野に紀元前3世紀、始皇帝陵が築造された。司馬遷の『史記』によると、巨大な地下宮殿があるとのこと。1974年、8000体の兵馬俑が発見され、これは実在の軍を写実したものだった。
  • 1998年、新たな地下遺跡、巨大な武器庫が見つかる。5000以上もの鎧(石の板と青銅の鎖)が発見された。ひとつの鎧に612枚もの石が使われ、鎧を作るのに100日はかかったと見られる。
  • 実際の鎧は皮や鉄だが、地下軍団では腐らないように石の鎧が作られたのである。10年以上の製作日数。黄泉の国信仰。
  • 1928年、安陽(河南省)で殷の都(殷墟)が見つかった。紀元前15世紀頃の王墓からは、豪華な青銅器が出土した。
  • 墓道は地下13メートルまで続く大規模なもの。東西53メートル、南北28メートル。地下には黄色い水が流れる黄泉の国が存在すると考えられ、そのために地下深くの埋葬がなされた。殷墟では11器の王墓が見つかった。
  • 黄河西北部、黄土高原。降水量はごくわずか。しかし文明誕生期の自然環境はまったく異なったものだった。1978年に発掘されたゾウの化石。サイなどもいた。『詩経』にも歌われたように、3000年前の殷の時代、黄土地帯は緑に覆われた草原だった。
  • 人々は森を切り開き、粟やキビなどの雑穀を育てた。また森の獣から家畜・作物を守るために、土の壁を作った。土の壁を作るのに、粒子の細かい黄土はちょうど良かった。
  • 河南省鄭州。紀元前1600年頃、殷王朝が築いた城壁が残っている。総延長は7キロメートル、1万人の労働者が18年毎日働かないとできない。甲骨文によると、牧畜民族のキョウと殷はしばしば戦い、キョウから守るために城壁が作られた。
  • キョウの人骨からは頭が切り取られている。黄泉の国で蘇らないようにするためだった。
  • 殷の時代から、湖北省では銅の採掘がおこなわれた。殷が強大な力を得た理由である。銅に錫(すず)を加えて強力な青銅を作り、黄土の鋳型に流し込んで、武器を作った。石器のキョウに対して、青銅の武器は圧倒的な力を発揮した。(四川省には、今でもキョウの子孫が暮らす。ヤギの牧畜、畑作。物見櫓。アバショイというシャーマンが民族の歴史を今に伝えている。)
  • 鼎(かなえ)などの殷の青銅器には、トウテツという神の顔の模様が描かれている。細かい模様の鋳型として、黄土は最適だった。ただし鋳型は一度で壊される。青銅器は大変貴重だった。出来たての青銅器は金色で、この輝きを人々は畏怖した。
  • 牛の骨、亀の甲羅で吉凶をうらなったのは王。王にのみ、占いの力があると考えられた。そのような威光も、祭器として用いられた青銅器の威容によって高められた。青銅器に祭られた酒を飲むことによって、王には神の力が宿ると考えられた。
  • 長江でも青銅器は広まっており、これは殷の影響を受けたもの。同じ銅が使われており、青銅器ネットワークが広範囲に存在していたことが分かる。
  • 殷の青銅器には象などの動物が模様として描かれているが、文明が開かれ、森が切り開かれたりするうちに、状況が変化。紀元前8世紀からの戦乱の時代に入り、神ではなく人々の生活が描かれるようになった。群雄割拠の動乱の時代は550年続き、人間中心主義の思潮が芽生えた。
  • 紀元前221年、秦の始皇帝が出現。鉄の登場による統一権力の誕生。鉄はふんだんにあるので、武器にとどまらず、農具、工具として用いられた。木材の加工も容易となり、森の開発が進んだ。『史記』には「鉄官」という役職名が見える。
  • 始皇帝は2650メートルの堤防を作り、ダムを築いた。これによって関中平野は豊な農地となった。黄土を用いた堤防、鉄器の使用によって、このような大規模な土木工事が可能となった。
  • 始皇帝の「皇帝」は神に代わる存在としての意味がある。冒頭の王墓も、その巨大な権力の象徴。
  • その後の戦乱によって、中国の大地からは緑が消えた。黄土高原では現在、植林作業が行われている。