『ダークナイト』の補足:天使って何?

中原昌也が「SPA」で『ダークナイト』を高く評価していた。『ドクトル・マブゼ』も紹介されている。
ジョーカーの悪魔性についても絶賛されていたが、「悪魔」というのは堕落した天使(fallen angel)であるから、この特異なキャラクター性を理解するためには「天使」についての理解が必須となる。と思って、稲垣良典『天使論序説』(講談社学術文庫)を読んでみた。
トマス・アクィナス神学大全』において規定されるように、天使とは「非物体的な知的存在」である(52)。では「天使の罪」とは如何なるものか?天使は非物質的(非身体的)な精神的存在であるから、人間のように、強い情念や悪い習慣によって理性的規準に背く、といった「罪」を犯す可能性からは免除されている。しかし、それでも天使は罪を犯しうる。それは身体的欲望を媒介として犯される罪ではなく、「精神の卓越性を無秩序な仕方で追求することにおいて犯す罪」(=傲慢の罪)であり、卓越性の追求に付随して生じる「妬みとしての罪」である(アウグスティヌスの規定)。
これらは天使が「神のごとくである」ことを意思する結果生じる罪であり、このことで天使は「永遠法への注意ないし考慮の不在」を招く(152)。しかしそれは「理性を認識しつつ、それに背くタイプの罪」ではない。このタイプの罪は、二元性によって限界づけられた、身体を持つ存在としての人間の罪であり、「非物質的な知的存在」としての天使には犯し得ない罪なのである。アウグスティヌスによれば、「悪にとらわれ、悪にまみれているわれわれ人間の目に映る悪をそのまま悪の究極の姿と見誤っ」てはならず(154)、悪の究極の姿とは「存在と善の欠如」、すなわち「永遠法の非存在」以上のものではありえない(マニ教善悪二元論の克服)。
このように考えると、バットマンが人間的悪の水準で卑小に悩み、ジョーカーの成す悪が(傲慢と妬みとを伴いつつも)人間的意味を超えた世界の水準に属すること(「神のごとくである」ことを目指した水準における「悪」であること)が、大変良く分かる。最終的に「善悪二元論」が克服されている、とすら言いうるわけだ。

天使論序説 (講談社学術文庫)

天使論序説 (講談社学術文庫)