宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(早川書房)

サブカル批評として、とても良く書けている。文章もうまい。以下、memo。

…九〇年代後半は戦後史上もっとも社会的自己実現への信頼が低下した時代として位置づけられる。/社会的自己実現への信頼が大きく低下した結果、「〜する」「〜した」こと(行為)をアイデンティティに結びつけるのではなく、「〜である」「〜ではない」こと(状態)を、アイデンティティとする考え方が支配的になる。ここでは自己実現の結果ではなく、自己像=キャラクターへの承認が求められる。問題に対しては「行為によって状況を変える」ことではなく「自分を納得させる理由を考える」ことで解決が図られる。(15)

碇シンジ君的メンタリティーの帰結としての、「引きこもり/心理主義」の蔓延。(「「何かを選択すれば(社会にコミットすれば)必ず誰かを傷つける」ので、「何も選択しないで(社会にコミットしないで)引きこもる」という…倫理」(17))。
「平坦な戦場で僕らが生き延びること」(岡崎京子リバーズ・エッジ』)という課題。碇シンジ君に突きつけられた「キモチワルイ」という批評をどう受け止めるか(『エヴァ劇場版』)。
内在系ニーチェ主義の破綻と、決断主義「への」挫折(宮台の転向、小林よしのり、「結末でアスカに振られないエヴァ」(更科修一郎)としての「セカイ系」)。
決断主義による「小さな物語」の乱立状況。「ジョジョ」「デスノート」に見られる、「サヴァイヴ系」物語的想像力の出現(「トーナメントバトル」から「カードゲーム」型ドラマツルギーへ)。

今を生きる私たちの課題は、たぶんここにある。碇シンジでは夜神月を止められないし、かといって自分たちも夜神月になって戦うのでは、バトルロワイヤルを止められず、むしろ激化させる。碇シンジに退行せず、かといって夜神月にもならずにこのゲームを生き抜くにはどうしたらいいのか――それが今を生きる私たちの課題なのだ。(117)

西尾維新の「転向」、宮藤官九郎の共同体像、グレーゾーンの関係性としての「友達」(木皿泉)、(『ラスト・フレンズ』!!)、よしながふみフラワー・オブ・ライフ』。新たな想像力に向けては、「安全に痛い」父性批判に留まるのではなく、「肥大する母性のディストピア」と距離を取ることも大切(青山真治『サッド・ヴァケイション』!)。
大枠では、ボクの考えとはだいぶ(微妙に?)違うけれど、キビキビとした分析が魅力的で、十分読むに値する内容だと思います。