韓国社会とキリスト教

シークレット・サンシャイン』を観て以来、韓国社会への関心が一気に高まっていたのだが、古田博司朝鮮民族を読み解く』(ちくま学芸文庫)を読んでみると、これがかなり面白かった。おすすめ。
古田氏によると、朝鮮民族の基底には、「状況によって重層的に構築されない感性」が存在しており、それはつまり「率直・単純・端的・直入・きんきら・のびやか・あっけらかん」と表現しうる感性である(206)。これに加えて、李朝朝鮮以来(15世紀)規定された、男子単系血族の宗族意識が影響してくる。血族しか信じないという親族内倫理が、社会の構成原理に適用され、「自分、家族、堂内、門中、宗族、同窓生、同族人、知り合い、民族」の同心円を拡大・縮小させながら、情の通用するウリと無情のナム(ウリの外部)とが区分されて成立する。
韓国社会では人間関係が不安定で、情緒的関係の継承性が存在しないので、絶えざる情の注入(ピエタス・インプット)か、あるいはその反対の、完全なる無関心(無視)が、関係性の基礎に置かれる。ウリとナムの間には深い亀裂が走っており、ウリの外部の他者(ナム)とは、共同会食などのピエタス・インプットを媒介にしなければ関係性を築くことができない。この不信の構造は、伝統的な階層秩序のもとでのタカリの習慣から労使間のタカリ構造へと引き継がれ、資本主義の成立にとってマイナス要因となってきた(近年の個人主義化によって、この点には大幅な変化が見られる)。
北朝鮮では、ウリ以外の他者との協同組織を可能とするために(=社会の近代化を進めるために)、金日成金正日をオボイ(親)とする民族のウリ化が進められた。国家と血族の二つの中心は、国家主席を核に一致させられ、忠孝一致イデオロギーと類似した、有機体的国家観が民衆に教化させられた(主体思想、ウリ式社会主義)。
ナムへの不信・ウリの絶対化は、朱子学理気二元論と結び付いて、屁「理」屈による、ウリの道徳的主張を生んだ。これは日常的な道徳観念とは切り離された、倫理的実体のない、「道徳志向」の表出を生み出した(要するに屁理屈)。「ナムたちと論争したとき、ナムたちを呆気にとらせても、感心させても何でもよいのだが、とにかく自分たちより道徳的に下方に封じ込め黙らせる威力を発揮できればそれでよいのである」(135−136)。
しかし「理」と「ウリ」の結びつきは、伝統的な階層秩序を前提とすることで、「ハン(恨)」の蓄積を病理化させた。ここにハン・プリ(ハン解き)としての、韓国キリスト教会の役割がある。以下、引用(「小中華」化のメカニズムへの言及を含む)。

キーワードは「ウリ」である。ウリは本来気の世界で腹一杯飲み食いし、駘蕩と楽しみたいのである。ところがこれは階序的に上層から排除され、抑圧される。その不満が積もるが、上層の独占する理の世界の教理にさらに呪縛され、上位者に責任を押し付けることができない。こうしてハンがたまる。このハンを解くには宗教的指導者によるハン・プリが必要である。宗教的指導者は理の世界の教理を土着化させる。このとき宗教的指導者はウリ、イコール気の世界の人々の有機的結合体という新たな論理を持ち出す。その根拠は民族でも、血縁でも、食口でも、連合体を意味するものならば何でもかまわない。あらたな理をみつけたウリは上層階級の独占するかつての理の「事大性」を攻撃する。このようにして理は気の世界で土着化し、「主体」化し、磨かれ、従来の理の事大性を攻撃するためにさらに「小中華」化するのである。「小中華」化した新たな理は、その外来思想の朝鮮における無力化を、そのまま御本家の異端化にすりかえる。こうして御本家に対する優越性を確保し、ハンを解き、「精神的勝利」を我が物(ウリ・コッ)とする。(156ー157)

ウリのハン・プリ(ハン解き)は、北朝鮮の「ウリ式社会主義」にも見られるもので、従って韓国の先鋭的キリスト教は、これと同等の機能を担っていることになる。
さて以上を前提に『シークレット・サンシャイン』を分析してみると、と続けたい所だが、長くなりすぎたのでやめます。でもソン・ガンホの感性が「状況によって重層的に構築されない感性」というのは、本当にそうだよね。

朝鮮民族を読み解く―北と南に共通するもの (ちくま学芸文庫)

朝鮮民族を読み解く―北と南に共通するもの (ちくま学芸文庫)