『イスラーム帝国のジハード』

佐藤次高イスラーム世界の興隆』(中公文庫)はどうにも頭に入ってこない文章だったのだが、小杉泰『イスラーム帝国のジハード』(講談社)はとても読みやすくて分かりやすい。イスラームが誕生し、広がっていった理由は謎というほかないし、またヒジュラ前後の情勢は危機的で、いつつぶれてもおかしくないほどの綱渡り状況だった。その綱渡りを「剣のジハード」を含め、うまく操縦したムハンマドの凄腕ぶりに改めて驚く。ビザンツササン朝の二大勢力を前にして、最終的にシリアを獲得しえた軍事戦略の帰趨も、その時点で考えてみればとても危ういものだった。
ビザンツ帝国ササン朝ペルシアの間の沙漠の空白地帯に、どのようにしてイスラームが出現したのか?

イスラーム帝国を建設した原動力の中には、間違いなく、一神教としての宗教的側面が位置を占めている。その原理がどこから来たかを問うとき、欧米の研究者は、ムハンマドキリスト教ユダヤ教接触して影響を受けたのではないか、という安易な伝播説に頼る傾向が強い。それを立証する事実の裏付けが薄弱なこともさることながら、文化の伝播で、あのような世界史を激変させる事態が生じうるという前提が間違いであろう。……
筆者は三〇年ほども、ムハンマドクルアーンコーラン)、イスラームの成立について、さまざまな角度から探究を続けてきた。その一つの結論として言えば、アブラハム的な系譜がヒジャーズ地方にも達していたと考え、その上で、一神教の系譜を継ぐ者としてムハンマドが現れたと見る方が、合理的である。さらに言えば、「肥沃な三日月地帯」をこのあたりまでを含むものとして見た方が、より整合的な説明が可能である。
歴史的な資料も近年のアラビア半島の考古学的調査も合わせて考えれば、シリアやパレスチナの地と、ヒジャーズ地方やイエメンを切り離して見ることは合理的ではない。言いかえれば、セム諸語がいきわたっていた範囲を全体として、「セム的一神教の故地」とすべきなのではないだろうか。そうであれば、ムハンマドが生まれた頃のアラブ諸部族が、自分たちをイブラーヒーム、イスマーイール親子の子孫と自認していたことも、彼らがマッカのカアバ聖殿を建設したのがイブラーヒームとその息子であると考えていたことも、十分に説明がつく。(42−43)

無明時代(ジャーヒリーヤ)の伝統的部族社会から、部族を超える世界観を説くイスラームがいかにして成立しえたのか?部族のためではなく世界観(アッラー)のために死ぬことが、どのようにして可能になったのか。

確かにイスラーム以前のアラブ人は、現世的で、刹那的で、享楽的であったかもしれない。部族主義的で、寄せ集めの偶像を信じ、容易に激高し、また富と力にうぬぼれて、弱者をないがしろにしたかもしれない。性的に放縦で、男尊女卑も強かったかもしれない。しかし、その一方で、勇気を持ち、客をもてなす気持ちが厚く、弱気を助ける美徳も知り、不義を嫌う側面も強く持っていた。ムハンマドは、そのような人々の心を鍛え、新しい理念によって方向付けをし、人生の意味と意義を自覚させ、イスラームという、それまでに存在したことのない人間精神へと変換していった、と考えることができるように思う。(114)

「全く同じ素材でありながらも、練り直し、新しい型に変換することで、錬金術と同じように、全く違った人間に生まれ変わるということがありうるのではないか」(115)。ヒジュラ以前のマッカ(メッカ)期(13年間)には、啓示以後の3年間(秘密布教期)は信者が30人、その後200人ほどが加わったにすぎなかったが、基本的に既得権益をもたない社会層・若者などがムハンマドに付き従ったようだ。
バドルの戦いの勝利、ウフドの戦いの敗戦を通じて、クルアーンの章句が共同体に深く浸透していくプロセスも興味深い。マッカ征服時にカアバ聖殿の360体の偶像を一つずつ壊していき、クライシュ族の守護神フバルの像を壊したというのも、想像してみると凄い情景だ。

イスラーム帝国のジハード (興亡の世界史)

イスラーム帝国のジハード (興亡の世界史)