ビクトル・エリセ『エル・スール』(1983)

監督+脚本:ビクトル・エリセ/撮影:ホセ=ルイス・アルカイネ 出演:オメロ・アントヌッティ、ソンソレス・アラングーレン、イシアル・ボリャン
ミツバチのささやき』から10年、生まれ故郷アンダルシアを捨てて活きる主人公の父(オメロ・アントヌッティ)の、南=エル・スールへの断ちがたい想いを、娘の目を通じて描く。エリセ夫人のアデライダ・ガルシア=モラレスが書いた小説が原作。冒頭、窓の外の光が明るんでいく父の家出の場面をはじめ、8歳の少女エストレリャが水源の位置を振り子で当てる父に従う場面や、父がカフェで手紙を読んでいるのを、窓の外から見つめる場面、15歳に成長するワンシーンの秋の見事なシーンがわりや、アンダルシアの幻想の場面など、息をのむ美しさで物語が展開する。(eurospace)

スペインの内戦で心の傷を負った父親は、自分の内面と孤独に向き合っている。娘のエストレリャにとって父親の姿は謎でしかなく、彼女は父親という謎を解くカギを、彼の「故郷=南」に見出すようになる。
作品全体を濃厚な宗教性が覆っているが、このことは一見すると奇妙だとも考えられる。共和主義者の父親は教会を否定しており、エストレリャの初の聖体拝領の儀式でも、それを後方から見守るだけにとどめているからだ。しかし、宗教を否定する者こそがもっとも根源的に宗教に接近する、という逆説を、ここで見逃してはならないだろう。父親が振り子を使った神秘主義に傾倒しているのもその表れであり、神なき者の絶望こそが、不条理そのものである人生を引き受ける人間の(愚かしさと)神秘性(あるいはその裏返しとしての神の崇高性)を最も雄弁に表現するのである。
窓から弱々しい光が差し込む冒頭シーンが感動的なのは、エストレリャが「神なき者の絶望」を引き受ける瞬間がそこに結実しているからである。ラスト近くで示されるように、この日を境にエストレリャは父親の問いを自身の問いとして受け入れるようになる。それは絶望のはじまりであり、希望のはじまりでもあるが、冒頭シーンはそのことの見事な映像表現となっている*1。イシアル・ボリャンが最高にすばらしい。

*1:朝日の差す光、頬をつたう涙、振り子の揺らぎ。