電車の中で、レヴィナス『全体性と無限』(岩波文庫)の訳者解説(熊野純彦)を読む。他者を「理解する」ことの倫理的な問題性について。以下、読まなくてもいい引用。

他者を「理解」することも、もちろんありうることだろう。とはいえ他者はその理解を踏み越え、他者との「関係は理解をあふれ出して」ゆくのではないだろうか。他者を理解するとは、かえって、他者が私の知のいっさいから逃れ出る存在であることを理解することである。――なにかを「理解する comprendre」とは、そのなにかを包摂することである。理解された存在は、私の知によって「包摂されて compris」いる。そうであるとするならば、そうした包摂の対象とはなりえないもの、それだからこそすぐれて「対話」の相手となる者をこそ、ひとは他者と呼ぶのである。

他者を理解するとは他者を包摂し、他者を「所有」することである。ちなみに、所有とは、ある対象を肯定すること、ただしあくまで私との関係において、私に対する依存にあって肯定することにほかならない。だから所有とは一箇の「暴力」であり、存在者の「部分的な否定」なのである。所有であり包摂であるかぎり、他者を理解することもまた、他者に対する暴力となる。他者とは、それを否定することが「全面的な否定」でしかありえない存在者のことである。言い換えれば「他者とは、私が殺すことを欲することができる唯一の存在者なのである」。けれども、「対面 face-à-face」とは、殺人の不可能性のことにほかならない。対面とは「語り」であり、顔は顔であることですでになにごとかを「意味している」からだ。(330-331)

これは大変よく分かる話である。他人に対して、あなたのことは分かった、理解した、などと言ってしまいがちだが、これは根本的な意味で、非常に問題がある。他者を理解することは、包摂し、所有することであり、要するに「私に対する依存にあって肯定する」ことにほかならない。
被害者的な立場から、この点に警戒しておくことが重要かもしれない。他者からの理解を求めるあまり、依存関係において肯定されることを望んではならない。他者からの理解など、こちらから撥ねつけるのでなくてはならない。知らず知らずのうちに陥りがちな罠ではあるけれど。
ちなみにレヴィナスの他者論については、「レヴィナスの語る意味でのどのような倫理も、倫理的暴力なしには開始されない」という、デリダの批判があるらしい(349)。上記引用でも、「部分的否定」としての「暴力」こそが否定されるべきであり、他者とはむしろ「全面的な否定」の対象とされるべき存在だ(「他者とは、私が殺すことを欲することができる唯一の存在者なのである」)、と解説されている。
おそらくデリダの指摘する問題性は、個人としての人間が無限(神)と対峙する、というヘブライ的図式に起因するものだと思われる。有限な人間の汲み尽くしえない無限性、という思考は魅力的ではあるが*1、人間中心主義ではない倫理学というものもありうるだろう。

全体性と無限 (上) (岩波文庫)

全体性と無限 (上) (岩波文庫)

*1:「古典主義時代の思考にとって、有限性というものの内実は、ただ無限性の否定だけであった。ところが、一八世紀末に形成される思考は、有限性に積極的なものの力を付与する。」(35)。有限である人間が、その有限性において、無限なるものに触れる(経験的=超越論的二重体)。古典主義時代の「表象の世界」を打ち破る、「生命力の横溢する欲望的主体の出現」(84)。