『国民国家と暴力』

詳しいことに言及したってしょうがないので、ざっくり感想。ヘーゲル『歴史哲学講義』あたりをおそらく嚆矢とする「原始社会→封建社会→近代社会」といった進歩図式があるんだが、Giddensは、この見方を徹底的に斥けている。国民国家群は、近代において、示差的な関係を保ったシステムとして、機能的な相互関係を形成している。そうである以上、「封建社会から近代社会の誕生を描く」といった一国発展モデルが、国民国家単位の自明性を安易に前提してしまっているのは大問題。で、それとちがったかたちでの歴史理解が求められている、というわけだ。これは、マルクス主義的な国民国家理解を斥けることでもある。Giddensは、ウォーラーステインを高く評価するが、その理由は以上のような事情による。
しかし、正直、この本は難解だ。位置づけのよう分からん概念が、いっぱい出てくる。たとえば、授権的資源(=人間関係にまつわる権力資源)と配分的資源(=物理的財産)。あと、一章分割いて、資本主義と工業主義は違うことを力説しているんだが、工業主義にそんなにこだわる理由もわからんぞ。
しかし、国民国家の特質が、彼のいう「再帰的モニタリング」によって生まれているという話はよく理解できた。1453年、ビザンチン帝国がオスマントルコにやられちまって、西方ヨーロッパ世界が新たな秩序形成に踏み出さねばならなかったとき、絶対主義国家の段階がはじまった。ウェストファリア条約三十年戦争締結)、ユトレヒト条約スペイン継承戦争の戦後処理)では、「おまえも国家、おれも国家。わかったか。おまえのこと認めたるから、おまえも俺をみとめろ」というかたちで、絶対主義国家同士が(他者意識を媒介とする)自己意識を抱くようになる。これが、再帰的モニタリング。で、Giddensが重視するのは1815年からのウィーン体制で、その後100年ほど続く平和な均衡の時代に、国民国家は授権的資源(行政権力)を増大させ、それにより配分的資源を経済活動に集中させ、結果、ますます国家システムを強大なものにさせた、という(その際、資本主義による兵器製造競争というモメントも重要)。そのあと、第一次大戦後の国境確定を経て、全世界的規模でのシステム完結、と。
そう見てはじめて、前近代における社会生活は、幾層ものレベルで存在してたんだなぁ、と実感できる。近代の国民国家システムは、人びとの生活を行政システムの影響下に組み込んでいった。いわば、国家と人々は、システムの関係のなかで、相互依存関係に置かれるようになったのだ。だから当然、国家による暴力行使のあり方も変わる。従来は、まったく無縁な農民などに、いきなり暴力をふるい、言うことをきかせていた。しかし、国民となった人々には、まさにシステムを担う人々であるので、端的な暴力性ではないかたちで、言うことをきいてもらわなくてはならない(フーコー)。これが、『国民国家と暴力』における、「暴力」の方のテーマといえそう(誤読?)。
といいつつも、この「暴力」というメインテーマの設定には、苦言も呈しておきたい。なんだか恣意的な感じがするんだよ。ややもすると、「平和な世界にするためには?」といった雰囲気で、設定されたテーマのように思えるのである。最後のところで、社会に規範的にコミットすべきだとして、コントとマルクスの名が挙がっているが、さてはヤツめ、ここでDurkheimの衣鉢を継いでいるのかもしれない。●●新聞に載る日も近いか。