オルテガ『大衆の反逆』

つい一月ほど前にもざっと読んだのだが、昨日内田樹先生のブログを読んで啓発されたので、ふたたび読む。やっぱり面白い。そして深い。
いきなりバカバカしいことを言うが、『大衆の反逆』というのはもちろん、エリートの専制支配に対し大衆が反逆する、といったような戦後民主主義的図式を意味するのものではない。オルテガ(1883−1995)は、19世紀において、自由主義イデオロギーと技術が「大衆」を成立させたとの認識に立つのだが、そのうえでこの「大衆」が、世界の危機をもたらすとの主張をおこなうのである。「大衆」を念頭におきつつ、オルテガは「愚者」について次のように語る。

……愚者は、自分を疑うということをしない。つまり自分はきわめて分別に富んだ人間だと考えているわけで、そこに、愚者が自らの愚かさの中に腰をすえ安住してしまい、うらやましいほど安閑としていられる理由がある。ちょうど、われわれがどうやっても、その棲んでいる穴からおびき出すことのできない昆虫のように、愚者にその愚かさの殻を脱がせ、彼を彼の盲目の世界からしばらく散歩につれ出し、彼が慣れきってしまっている鈍重な視覚をもっと鋭敏な物の見方と比較してみるよう強制する方法はまったくないのである。ばかは死ななければなおらないのであって、ばかには抜け道はないのだ。(98)

どこかで聞いたようなセリフではあるが、できれば繰り返して口にしてみてほしい。「ばかは死ななければなおらない」――真実とはつぐづくひとつである。
さらに、オルテガ曰く、大衆人はもはや「ばか」ですらない。大衆人は、自身を「ばか」だと自覚できないことによって、「ばか」よりもいっそう始末におえない代物なのである。「しかしわたしは大衆人がばかだといっているのではない。……大衆人は、偶然が彼の中に堆積したきまり文句や偏見や思想の切れ端もしくはまったく内容のない言葉などの在庫品をそっくりそのまま永遠に神聖化してしまい、単純素朴だからとでも考えないかぎり理解しえない大胆さで、あらゆるところで人にそれを押しつけることであろう」(99)。大衆は、「昆虫」のように「棲んでいる穴」に閉じこもっていてくれるわけではないのだ。
一方、オルテガのいう「貴族」、つまりエリートは、「努力する生」を生きる人間のことである。

わたしにとって、貴族とは、つねに自己を超克し、おのれの義務としおのれに対する要求として強く自覚しているものに向かって、既成の自己を超えてゆく態度をもっている勇敢な生の同義語である。かくして、高貴なる生は、凡俗で生気のない生、つまり静止したままで自己の中に閉じこもり、外部の力によって自己の外に出ることを強制されないかぎり永遠の逼塞を申し渡されている生、と対置されるのである。(91)

しかしこのような貴族の生は、物質的にも精神的にも、もはやみずからに反省意識を見出さない大衆によって、危機にさらされている。貴族の生は、大衆の跋扈によって、いっそう維持しがたいものとなっているのである。それゆえ、19世紀を経過した現代はオルテガにとって、まぎれもなく危機の時代である。とはいえ、オルテガがこの危機の内部で、まったく悲観的であったというわけではない。かれは両義的な物言いのなかで、ある種の可能性について語っている。

……このことは、それ自体では憂うべき兆候ではないといえよう。というのは、それは、われわれが、すべての生に本質的に内在する不安感、つまりもしわれわれが一瞬一瞬をその核心まで生き、その小さなうごめく血なまぐさい内臓までも生きる術を知っていたとしたら感ずることのできる、あの苦しいしかし同時にすばらしい不安感とふたたび接触するにいたったことを意味するからである。(中略)したがって、明日何が起こるか分からないという意識を、われわれが三世紀ぶりにもつというのは有益なことなのである。(60−61)

比喩が卓抜すぎてよく分からないだろうから、私の解釈を示しておこう。これは、未知に対する現代的不安のなかにおいてこそ、心臓がドキドキするような時代的経験が生まれるのだ、ということを意味している。内田先生も言っているように、オルテガのいうエリートというのは、あらゆる可能性のなかから決断を積み重ねていく際に、迷い、たじろぎ、怖れるような、情けない人物でなくてはならない。すなわち、不安であることは良いことなのであって、その不安を生み出す社会的条件が現代には備わっているというのが彼の主張なのだ。生の現実に直面するかぎりはそのような動揺はさけられるはずもないのだし、またそのような動揺に見舞われない人物において精神の誠実性を見出すことはできよう筈もない。このような真実によく通じた人間(貴族)こそが、時代の危機を切り開きうるのである。以下の引用を読むべし。

明晰な頭脳の人間は、……生の現実を直視し、生のすべてが問題であることを認め、自分が迷える者であることを自覚するのである。これこそ真理なのであるから――つまり、生きるということは自己が迷える者であることを自覚することなのであるから――その真理を認めた者はすでに自己を見出し始めているのであり、自己の真実を発見し始めているのである。(224−225)

オルテガによれば、貴族は迷うことによってはじめて、「確固たる基盤に立」つことができるのである。彼は、生の混沌のなかで「難破者の思想」という真実を獲得し、そうすることによってはじめて、生の混沌のなかに何がしかの秩序を見出すための道すじを手にするのである。
一方、ここで大衆人はどのような態度を取るのかというと、「彼らは、現実を、自己自身の生を直視しないようにするために思想を用いているのである」。この箇所については、私のまわりにもずいぶん分からず屋がいるから、彼らに投げつけるべき言葉の用意として、以下の引用。

……彼らは、現実を、自己自身の生を直視しないようにするために思想を用いているのである。それは、生とはさしあたって、自分が迷いこんでいる混沌だからである。人間はそれに気づいているが、その恐るべき現実に直面するのが怖く、そこではすべてのものがきわめて明確になっている思想という幻影の垂れ幕でその現実を覆い隠そうとするのである。自己の「思想」が真正なものでないことには無頓着で、自己の生から自己を守る防空壕、現実を追い払う案山子として用いているのである。(224)

ハイデガーが「死について考えるのが臆病だといっているやつは、死について考えられない臆病者だ」というようなことを言っていたような記憶があるが、それとよく似た話である。私の一時期の口癖は、「どうせ死んでしまうのに」だったが、「どうせ死んでしまうのに」「勝手に作り上げた自分の目標(「思想」といってもよい)を掲げ」「それが達成されないことに不満を述べたてる」ような人間は、どうしてもバカだとしか思えない。さらにいうなら、私は、迷わずにいろんなことができてしまう人間も、やはり本質的にバカなのだと思う。「どうせ死んでしまうのに」「自分の思いついた勝手な目標を掲げ」「それにもとづいた行動に突き進んでいくことにどうして満足できるのか」「それが究極の目標とはなりえないことがどうして迷いの対象とならないのか」、いくら考えても不明だからである。
なお、この貴族の精神的態度に関して、内田先生が痒い所に手のとどく、まことにステキな文章を書いておられるので掲げておく。*1

オルテガが「貴族」という語に託したのは、外形的な「人間類型」や「行動準則」のことではない。/そうではなく、自分の行動もことばもどうしても「自分自身とぴたりと一致した」という感じが持てないせいで、そのつどの自分の判断や判定に確信が持てない。だから、より包括的な「理由」と「道理」を求めずにはいられず、周囲の人々を説得してその承認をとりつけずにはいられず、説得のために論理的に語り修辞を駆使し情理を尽くすことを止められない…/という「じたばたした状態」を常態とする人間のことをオルテガは「貴族」と言ったのである。(内田)

こういう理説は、容易に理解されないものなので、もう一丁、念押ししておこう。

オルテガがたどりついた結論は「努力」とは「自分自身との不一致感」によって担保されるという、平明な事実であった。/おのれのうちに「埋めがたい欠落感」を抱いている人間はそれを埋めようとする。/「ことばにならない欲望」を抱いている人間はそれを「ことばにしよう」とする。/おのれのうちで「聞き慣れないことば」が語ることを知っている人間は、「聞き慣れないことば」を語る他者からその意味を知る術を学ぼうとする。(内田)

つまりポイントは、大衆が社会の前面に出現するにいたって、他者性をふまえた共同性をいかにして維持しうるか、ということなのだろう。オルテガは、社会というのは高貴な人々によって担われるべきものであると断言している(これは、当為命題ではない)。他者がますます大量に接触しあうなかで、互いが容易に理解しえない存在であることを了解しつつも、どこまで思考停止におちいらずに対話を持続させていけるか。これこそ、オルテガの提起する、大衆社会の危機の中心問題なのであり、われわれの「社会」を維持するための方策なのだ。オルテガファシズムサンディカリズムを挙げているが、暴力や直接行動によらないで、迷い、たじろぎつつも、生の不透明性に付き合いつづける態度を育てていくことが、とても大切なのだと思う(この主張、なんかブログっぽいな)。
なお、『大衆の反逆』の最後のところを読むと、迷いのなかでの決断を実現するためには、いきいきとした生の足かせとなりつつある国民国家は打ち捨てて、ヨーロッパ共同体のような政治体が必要だと述べられている。この処方箋(?)はちょっとおかしいかなとも思う。

ヨーロッパ大陸の諸民族の集団による一大国民国家を建設する決断のみが、ヨーロッパの脈動をふたたび強化しうるであろう。その時、ヨーロッパはふたたび自信をとり戻し、真正な態度で自己に大いなる要求を課し、自己に規律を課すにいたるだろう(262)

しかしこの本は、エリートとは何かを考えるうえで、非常に参考になる本であることはまちがいない。さらに、内田先生が目をつけているように、オルテガのエリート論は、ニューエコノミーが進展していくなかで階級社会化が予想される今後の日本社会のあり方を考えるうえでも、重要であろう。自己責任社会の思考停止問題とか、「エリート・大衆」とは何ぞやとか、階級社会におけるシステム的な分担がはたして本当に実りがあるといえるのかとかいう問題。つかれたので、寝るけど。

*1:以下の文章は、私が「談志師匠」のところで引用したオルテガの文章と密接に関わると思われる。談志がなぜ「貴族」なのかがはっきりとわかるから、読むべし。