岡崎京子のマンガはええで

ブログを書くのもいい加減疲れてきました。あまりにエネルギーを投入しすぎて、ちょっとおかしくなってるし。肩こるし、目つかれるし、どないしたらええねん。シュー論書くときもこんなことなかったぞ。だいたい、このフォーマットに書き込むときの字が小さすぎるねん。どうしたら大きくなるんや。ワードで12ポイントの大きさで書かへんかったら、体の調子くるうねん。めちゃくちゃや、ホンマ。力抜いて書けるようになるんは、いつのことやら。こんな書評か評論か分からんようなブログ書いとったら、だあれも読まへんし、書いてる本人も頭イカレテまうで。何がしたいねん、ちゅうこっちゃ。
愛の生活 (単行本コミックス) ヘテロセクシャル (単行本コミックス) リバーズ・エッジ (Wonderland comics) ヘルタースケルター (Feelコミックス)
オルテガだのなんだのいってて、書く力残ってへんかったから言わんとったけども、二日か三日前くらい、岡崎京子のマンガ読んだんや。こんなグリコ森永事件の脅迫状みたいな文章で紹介するのも気後れするけど、やっぱりおもろいな。センスあるわ。おもろいっちゅうか、はっと息を呑むようなコマがあって、どきっとすんねん。ええわ。ホンマに。『愛の生活』と『ヘテロセクシャル』ちゅう、どっちも短編集や。自分のキャラクターにはあわへんのは知ってるけどもな、おれかて、たまにこんな都会の女の子の気分になってみたいときもあるんや。ほっといてくれんか。日常生活のごくありふれた閉塞感から、どっかにブレイクスルーする道はないんかなっちゅう感覚。これは文字で説明したかって、なんとも表現しきらん。文学とか芸術とか、そういう分野が表現せなあかん、微妙な感覚や。じっさいに、こんな女の子はどこにもおらんと思うねんけど、でもこういう感覚はあるよなっていうのを、ほんまに深く納得させるで、岡崎京子のマンガは。おれは古谷実の『グリーンヒル』が好き(田中麗奈も好きってテレビで前言うとったで。それきいておれはグリーンヒルなんかよりも、それを読んでる田中麗奈のほうが圧倒的に好きになったけどもな。瞬間恋愛や。ちなみに『ヒミズ』はあかん。あっこまで暗くなる必要はあらへんで。)やけれども、そもそもマンガなんてのはまったく読まへん人種やねん。せやけど、岡崎京子には一目おいてる。このオレに、マンガの可能性を教えてくれる数少ない作家や。もちろん、たまたま読んだっちゅうだけの縁やねんけど、何と言っても『ヘルター・スケルター』は戦慄ものやったわな。ぐうのネも出えへんかったわ。あと、『リバーズ・エッジ』やったかな、それも名作といわれてるらしいけど、これはあんまピンとこんかった。けど、『ヘルター・スケルター』だけはほんまの傑作やで。好き嫌いはぜったいあると思うから、むりに推奨はせえへんけどもな。むりやりテーマ化したら、だいたいこんなふうになるやろか。私のおるべき場所はここじゃなくてもいいはず、どこかにもっとピッタリした場所があるはず。そこそこ満ち足りているし幸せやけども、でもこれがほんとの幸せなんか?わたしがわたしであることのかけがえなさはどこにあるねん。それを追求していったらほんまに答えにたどりつくんか?――――まあだいたいが恋がらみの主題やねんけども、これをただの恋愛マンガやと思ったら、大やけどや。勘違いしてまうで。自分をとことん追求していったら、けっきょく自分のなかにある他者性にたどりつくんやけども、この他者性にたどりついたとたん、まったく自分の予想もしてなかったような狂気にふれるんや。これが岡崎京子のマンガにある、ほんまに重いテーマなんや。救いようもなさ、というか。もちろんハッピー系のマンガもええねんで。これかて、ありそうもなかった自分にめぐりあう奇蹟性をばっちり感覚させてくれるからこそ、ほんまのハッピーを味わうことができんねん。なんかこれ、オルテガの話といっしょやな。オルテガがいうてた高貴な人っちゅうのも、やっぱり自分のなかに他者性を見出し、他者の他者性にたいして真摯に向き合う人間のことをいうてたもんな。やっぱり一流の人間の考えることっちゅうのは、最後はなにかしら共通した洞察にたどりつくんかもしれへんな。えらい長うなったけど、関西弁で書いたらスイスイかけるわ。これからこれでいこっかな。ではみなさん、岡崎京子読んでや〜。